Interview
Safulo.Alik.Cikatopay
Life Philosophy
Interview with the Safulo.Alik.Cikatopay
蔡中涵的半生 / 蔡中涵の半生を振り返る
命運的相遇,開啟了追尋阿美族血脈與自我認同的旅程
「唉呀, 怎麼突然這樣?」
即便他已習慣被媒體採訪, 但面對被親戚正式訪問, 仍顯得有些拘謹跟彆扭。
我第一次見到我的舅公─蔡中涵(Safulo Alik Cikatopay),是在十年前。 那時我以交換學生的身份在台灣生活已過了半年, 突然母親傳來一則訊息:「你去見見這個人吧。」於是我戰戰兢兢聯絡了我的舅公, 我們約好在捷運忠孝敦化站附近的上島珈琲店見面。 當我走進店裡, 我看見他神情嚴肅地坐著, 抬頭稍帶戒備地注視著我。 畢竟陌生人突如其來的邀約電話, 誰不會懷疑是詐騙呢?當時我的華語仍不流利, 他也許察覺到我們的對話很不順暢, 於是轉以日語和我交談。
他流利的日語讓我既驚訝又感動。 他告訴我, 我雖然從小在華人父母的家庭裡長大, 並且在日本成長與接受教育, 但血液裡留著台灣阿美族的血統, 並鼓勵我踏上尋根的冒險旅程。 誰能想到, 這次的相遇竟然會改變我的人生呢?從那時起,每回造訪台灣,我便會去拜訪 Faki(阿美語中表示的「舅公」敬稱, 我習慣稱呼 Faki)。 隨著交流愈加深入, 我愈被他的成長背景、 人生經歷, 以及他至今仍保有的活力與使命感所吸引。 了解他, 也就是在了解我自己。 出生於阿美族的部落, 曾經是放牛的小孩, 為何日後能在東京大學取得博士學位, 並成為代表台灣原住民族的重要政治人物, 站在社會的前線呢? Faki 那驚濤駭浪的人生, 逐漸展現在眼前。






三個名字的牧童
─ 「舅公」您十年前與我初次見面,看到您的名字中有「Safulo」這個阿美族名讓我感到很驚訝。
Faki:我出生於台東縣成功鎮麻荖漏部落(Madawdaw),為八個兄弟姊妹中的老么。我的阿美族名是「Safulo Alik Cikatopay」:Safulo因我是第三個兒子而名為「三郎(日語Sabulō)」,Alik則是母親名,Cikatopay是氏族名。我在日本統治時代的名字是「市村三郎」。也就是說,我有阿美族名、日本名和漢名三個名字。第一天上小學老師點名叫我的漢名,我沒有回應,被老師駡了一頓,老師以為我是智障,連自己的名字都不知道。我的父親是來自成功鎮南邊都歷的人,母親則是北邊宜灣的人,兩人都是阿美族。我父親在日治時期在宜灣的蕃童教育所(原住民初等教育機構)擔任教師,因此認識了我母親。阿美族傳統為母系社會,通常是男性入贅為婿,但日治時期鼓勵女性出嫁,因此我母親就嫁給了我父親而不是招贅,違北了傳統的婚姻制度,而部落的人也會議論此事,所以他們才搬到了位於都歷與宜灣之間的新港(今成功鎮)。
蔡中涵的雙親,也就是我的曾祖父母Alik Lisin(左)Kacaw Muno(右)
新舊成功鎮, 這條位於市中心正中的大街, 無論過去還是現在, 都是鎮上最繁華的中華路
─ 您從小就會說日語嗎?
Faki:會聽幾句。雖然家裡主要以阿美語交流,但父親是位日語教師,因此言語中夾雜著不少日語,即便是戰後這個習慣仍延續著。其實,日常生活摻雜了不少阿美族化的日語詞彙。
─ 您能聊聊童年記憶嗎?您成長於怎樣的環境?
Faki:當時在新港主要的產業為農業與漁業。我常幫忙田裡工作,這是家中維持生計的重要事務。牛是農耕最珍貴的資產,我擔任專責的放牛小孩。國小五年級時,我曾經休學幫忙做農事,但是我家卻常為是否能三餐溫飽而煩惱,當時連地瓜也沒得吃,就連續三個月只吃木瓜也不稀奇。雖年幼,但每天都得面對艱難的挑戰。多虧了父親嚴格的教導,我才能堅持下來。他極遵守紀律,比如在約定的兩小時前就到集合地,我想這是他擁有教師特質的體現。有一次,我和兄弟到海去捉魚,當時道路還是碎石子路而非柏油路,因打赤腳走路踼到石頭,大拇指的指甲被掀開,血流不止。
當時父親對我說:「這點傷算什麼,哭什麼!」正是這種嚴格的教育,造就了我的忍耐力、堅韌與獨立性。
在農耕作業中所說的牛,是指水牛。雖然看起來溫順,但若公牛彼此對視,容易引發爭鬥,須特別留意
從貧困中開始認字
小時候最重要的工作是放牛,讀書根本沒有列入生活的項目內,那麼,他是如何完成了每一個階段的學業呢?
─ 您中學畢業時是十八歲?
Faki:對。當地中學成立時,我已經小學畢業三年了,但當時校舍尚不完備,我們借用小學的教室或空地上課。午休與寒暑假時,老師帶我們到海邊搬沙礫,協助搭建教室。說實在的,這三年我根本不知自己在學什麼,但是我們都很快樂。我們新港初中第一屆的學生畢業時大多在18、9歲。回顧小學只唸了五年也跟著同班同學畢業,初中幾乎都是在教室外的自然課程,所以畢業後自知完全沒有能力考台東的任何高中,我就進了花蓮一所職業學校的夜部就讀,但因無法負擔學雜費,唸了一學期就去玉里安通的山上跟父母親開墾山坡地種植玉米等雜糧過日子。
舅公的母校 台東縣成功鎮三民國小的校景(2025 年撮影)
─ 生活優先,不得不如此?
Faki:是啊。我中途退學後,直到翌年,我的二哥把我帶到台北。親眼見到都市的生活,重重地衝擊著我。當時我想:「都市與部落的生活差距怎麼會這麼大?我想一定有原因的。我必須要讀書,才能夠了解那個原因。」那次的衝擊,改變了我的人生。然而,雖然之後順利考上了台北的高中,卻因學費的問題而只好再次休學(笑)。
─ 一波未平一波又起(笑)
Faki:我回到安通,與父母親一起開墾山坡地繼續種植玉米等雜糧。有一晚,我在煤油燈昏暗的工寮裡思考著未來:「難到是一輩子做山上的工作?,難到我走不出這座山嗎?」我輾轉難眠地思考,看著同學紛紛升學,我卻退居山林,因而深感挫折。最終我下定決心:「我一定要跨出這座山,在那不知明而又廣濶的世界走出自己的一片!」我向父母說明後,父母自由尊重的受教育的理念,同意了我的選擇。於是我從山上揹了值錢的農作物拿到安通火車站旁的米廠賣錢物品拿去販賣,然後用這些賺來的錢回到台北復學。結果,想想初中我花了五年才從中學畢業,半工半讀的高中也花了五年才畢業。
在母校的畢業生名冊上找到姊姊的名字。曾經和哥哥、姊姊就讀於同一所學校
日治時期的三民國小操場上打棒球的情景(照片:顏光亮)
1960 年代救國團山地服務隊巡迴部落,提供醫療照護與課業輔導時的照片
單程機票也要走出自己的一片春天
相較於順利畢業的同儕,舅公學業落後甚多。但他心中蓬勃的挑戰精神,以及對於當年看見的城鄉差距的本質原因,那種好奇與探究的心,引領他開啟了大學進學之路。
─ 您能分享大學時代的故事嗎?
Faki:憑藉努力,我考上台北的國立師範大學(當時為省立師範大學)。但一年後,我發現自己不想當教師,加上與指導老師合不來,於是我選擇退學,並且於隔年轉至國立政治大學東方語文學系俄語組。當時懂俄語的人很搶手,大學也提供生活補助,讓我不用為生活發愁。畢業後,我服完兵役,之後回到母校的資料館工作,但整理大量資料很辛苦。另一方面,透過接觸與世界相關的書籍,也讓我對國外的興趣與好奇心大幅上升,激起了我挑戰自己的慾望。於是「海外留學」的念頭便開始萌芽。我想去國外,試試自己到底能不能闖得出一片天。
─ 最後選擇日本?
Faki:沒錯。日本對台灣來說是最近的「國外」,也因兒時對日本語言與文化的親切感。我當時只有買單程票的積蓄,所以我對自己說:「我沒有回去的這個選項,我不想空手而回,一定要抓到點什麼回去才可以。」
在日本的生活非常艱苦。因為沒有錢,不兼好幾份打工就連三餐都無法溫飽。白天我在新宿的中華料理店裡工作,晚上則在鶴見水果店裡打工,從傍晚六點工作到晚上十點,然後再回到四疊半的房間,從十一點半開始讀書。回家後我會開電視來提神,而且讀書時一定要吃我最愛的卡樂比蝦條。日本的二月尤其難熬,那種刺骨的寒冷,是在台灣從未體驗過的。
─ 您怎麼能堅持這麼久?
Faki:其實我來日本的第一年就報考了慶應義塾大學,但落榜了。非常遺憾,所以我告訴自己下一次一定要考上。於是我一邊打工,一邊上日本語學校,也旁聽大學課程,不懂的地方就查資料。在這樣日復一日的努力後,在我第二次報考時,順利進入了東京大學的社會學系研究所。
─ 您這份努力真的很令人敬佩。
Faki:來談談研究生時期的苦難吧(笑)。提交論文的前兩個月,我被車撞傷了右肩,導致肩膀無法活動,但手肘到手部還能活動寫字。於是我把手肘擱在桌上,把稿紙傾斜,硬是一字一字地用手寫完成論文。那時沒有電腦或智慧型手機,所以每字每句都得親手寫的啊!連我都很驚訝地,最終我準時交出了我的論文。順利完成碩士課程後,我接著申請繼續讀博士。讀博士的期間也發生過意外。我提交了關於蘇聯赫魯雪夫的研究的論文,因為審查需要一年的時間,那段期間我便在日立工廠工作。
就在口試前一週的晨操中,我突然倒下送醫,醫生診斷出我得了胃潰瘍且內臟出血,必須立即住院。但如果住院,肯定會錯過口試,而且延期又不知要等到何時。我想:「這一次一定要撐過去完成它。」雖然醫生強烈反對,但我還是決定以那種狀態參加口試。口試當天,我一邊忍著劇烈的胃痛,一邊回答考官的問題,甚至還覺得自己答得不錯。但到後來,我的意識逐漸變得模糊──因為整整回答了四個小時啊!那時候我真的密密麻麻覺得自己要撐不住了。






在舅公的傳奇事蹟當中,這段故事最令人屏息。幼年時父親的嚴格教育所鍛鍊出的堅韌精神。據說運動員在受傷的情況下仍能繼續比賽,是因為腎上腺素分泌讓人處於興奮狀態,對疼痛變得遲鈍。但舅公的狀況並非如此──他單憑著這股堅韌精神,硬生生跨過困境。每次聽到這個故事,我都讚嘆不已。
逆勢反擊的舅公與他的反抗計畫
台灣人首次獲得東京大學社會學研究科博士學位的消息,將舅公的人生推向了意想不到的方向。
─ 我對您的堅持與努力至深佩服。
Faki:口試隔天我住院,但出院不久後就收到中國國民黨東京支部的邀請,問我是否願意代表黨參選立法委員。當時的我,的確單純地思考著是否要走進政治圈,但那時我原本想返回故鄉當教師幫助部落。後來我想,若成為政治人物,可以更快且有效率地透過法律和制度的建立,幫助到我的族人和部落。於是我接受了這個提議。不久之後,國民黨系的《中央日報》便以「山地青年蔡中涵,獲東大社會學博士學位」為題報導。我這才明白,他們想利用我的學歷來提升黨的形象,這讓我很火大,於是我便想:「那我也要好好地利用你們。」
─ 從 1986 年起您連任了立委長達十八年,在這期間主要推動了哪些事?
Faki:當時台灣剛解嚴、社會運動風起雲湧,其中也包含原住民族的正名運動。我站在最前線,向政府爭取「土地返還」、「成立原住民族專屬行政機關」、「實現自治」等訴求。然而社會運動終究只是運動,身為立法委員,在國會中我擁有發言權,也能直接透過立法來實現這些訴求。
1996 年,原住民族委員會成立,成為中央層級的行政機關。但地方上能夠承擔自治職責的人才仍然不足。於是, 1998 年《原住民族教育法》通過,將原住民族的歷史與文化納入教育課程、培育所需的人才、促進原住民族的永續發展與福祉提升。
過去,原住民在政治上的聲音微弱,如今有像我這樣原住民族出身的政治人物,能夠替大家發聲。因此,我在都市地區也能獲得不少選票。而在都市工作的原住民會寄錢回鄉給家人,或許他們也會勸家人「投票給這個人」。我想,這也是我能夠連任六屆立委的原因之一吧。
向參與台灣原住民族正名運動遊行的族人致敬的場景。中央手持麥克風的是當時的立法委員蔡中涵。
來源:《臺灣原住民族運動史料彙編 ( 上 )》 2021.12(原住民族委員會)
在擔任立法委員期間與已故南非總統尼爾森.曼德拉握手
舅公所經歷的艱難,不是幾句話能概括的。博士學位的取得雖然讓他走進政治圈裡,但他巧妙地利用的局勢,貫徹了自己的使命。命運的齒輪意外地咬合,不僅改變了他的人生,也為台灣原住民族社會寫下了歷史的一頁。
兩種文化「匯流」所造就的台灣
在舅公的政治生涯中,他取得了許多成就,也讓原住民族的生活獲得改善。但貧富差距、文化傳承與教育等議題仍存在著許多挑戰。最後,我想請他談談他心目中的理想社會模樣。
─ 舅公,您理想中的台灣社會是什麼模樣?
Faki:我想傳遞一個觀點:台灣文化是由大約四百年前來自中國大陸來的漢民族(包含閩南人與客家人)與五千年前的南島語族(即現在的台灣原住民族)兩種文化,在時間中「匯流」而成。族群間通婚、共生,存在著許多共同點。經過數百年的碰撞後,形成了獨特的文化。談到台灣文化時,原住民族與漢民族缺一不可。若理解這個概念,經濟上與文化上會能更互相幫助。但是近年台灣社會動向,正在將這兩種文化拆開。我看到一些有社會影響力的人在談「台灣意識」時只強調漢文化,而忽略原住民文化。本應是互相依存的關係,如今卻開始偏頗,這讓我感到危機。
自從我從政治圈引退後,在大學講課或演講時,我都會談這件事,我會說:
「大家要手牽手啊」
當我們拆解台灣文化,可理解它是由兩種文化經過長時間、緩慢結合,才有了今天的台灣。這是他對台灣深刻的洞察。舅公除了在大學教書之外,也為保存原住民族文化而努力,包括研究歷史事件、訪談長輩並記錄寶貴經驗,還監修與編纂阿美語辭典等。
要在一場訪談中聽完他波瀾壯闊的人生是不可能的,我所聽到的,也只是冰山一角。但透過了解他,我獲得了尋根的線索,心中充滿感激。他沉靜卻威嚴的風範,十年前和現在沒有兩樣。他目光所注視的,是希望還是失望?我仍無法完全讀懂,,但可以肯定的是,我將會持續被他那神秘的魅力所吸引。

舅公與舅婆照片:參觀英國南部普利茅斯市那座擁有千年歷史的古老教堂
Edit:Toranari Miyada
Photos:Chung-Han Tsai,Sanmin Elementary School Chenggong Township Taitung Hsin-Kang Junior High School, Toranari Miyada
Special Thanks:Sanmin Elementary School Chenggong Township,Taitung Hsin-Kang Junior High School
運命の出会いが、阿美族のルーツと自分探しの旅の扉を開いた
「やあ、急にどうしたの?」
メディア取材に慣れている彼も、親族から改まってインタビューを受けるのは少しぎこちないようだった。大叔父こと蔡中涵(SafuloAlikCikatopay)と初めて出会ったのは、今から10年前のこと。交換留学で台湾に渡ってから半年が過ぎた頃、母から「この人に会ってきなさい」とメッセージが届いた。恐る恐る連絡をし、忠孝敦化駅近くの上島珈琲店で待ち合わせることになった。店内に入ると神妙な顔つきで座る大叔父は顔を上げ私のことをやや警戒した様子で見つめる。見ず知らずの人から突然「会いましょう」と電話が来れば、詐欺を疑うのも無理もないだろう。当時の私は中国語がまだ拙かった。会話がままならないと感じたのか大叔父は日本語にシフトしてくれた。彼の流暢な日本語に驚きを隠せなかった。華人の両親のもと幼い頃から日本で育った私に、台湾アミ族の血が流れていることを教えてくれ、ルーツを探求する冒険へと誘ってくれたのだ。まさかこの出会いで自分の人生を変えられるなんて予想できただろうか。それからは、台湾へ行く際、Faki(アミ語で「叔父さん」を表す敬称、私は彼をそう呼ぶ)のもとを訪ねるようになった。会話を重ねていくうちに彼の生い立ち、経歴、現在に至るまでの活動などに惹かれるようになる。彼を知ることは自分を知ることにもつながるからだ。台湾アミ族の村に生まれ、かつては牛を追う牧童だった彼が、なぜ東京大学で博士号を取得し、やがて台湾原住民族を代表する政治家として社会の最前線に立つことになったのか。Fakiの波乱万丈な人生を振り返る。






3 つの名前を持つ牧童
─ Faki の出会いは10年前でしたね。お名前に「Safulo」と和名が入っていることに最初はびっくりしました。
Faki:台東県成功鎮のMadawdaw(麻荖漏部落)で8人兄弟の末っ子として生まれました。アミ族名は「SafuloAlikCikatopay」。「Safulo」は三男として生まれたため、「サブロー」と名付けられました。「Alik」は母親の名前、「Cikatopay」は士族名を表しています。日本統治時代の名前は「市村サブロー」でしたよ。なので、私にはアミ族名、日本名、中国名の3つの名前があるんです。小学校の初日に先生が漢名で点呼しても返事をしなかったので、知恵遅れだと誤解され叱られたこともありました。
父は成功鎮の南にある都歷出身、母は北の宜灣出身で、ともにアミ族です。父は日本統治時代に宜灣の蕃童教育所(原住民に対する初等教育機関)で教師をしていました。母と出会ったのはその頃です。アミ族は伝統的に母系社会(女性中心の家系、財産と家族が母方で継承される社会)で成り立っているため、通常は男性が婿入りするのですが、日本統治時代に婿入りを制限し嫁入りすることを推奨しました。うちの家庭もその影響を受け、形式的には母が父に嫁ぎました。仕方のないことですが、周りから悪いイメージを持たれるとされ、部落内の話し合いの結果、都歷と宜灣の中間にある新港(現在の成功)に移り住んだと聞いています。
蔡中涵の両親であり、私の曽祖父母Alik Lisin / アリク・リシン(左)Kacaw Muno / カツァウ・ムノ(右)
新旧の成功鎮、真ん中の大きな通りが今も昔も街中で一番栄えている中華路
─ 小さい頃から日本語は話していましたか?
Faki:はい。家での会話はアミ語中心ではあったものの、父は日本語教師でもあったのでところどころ日本語も混じっていました。日本が敗戦した後もその名残は続きました。アミ語のなかには日本由来の単語が意外と多いんですよ。
─ 幼少期の思い出についても聞かせてください。どのような環境で育ったのでしょうか?
Faki:当時の新港の主な産業は農業と漁業でした。私はよく畑仕事の手伝いをしていました、家族の生活を支える重要な仕事です。当時、牛は農作業に欠かせない貴重な財産で、専門の世話係として牛当番を任されていました。小学5年生のとき畑仕事に専念するため一度休学したのですが、三食まともに食べられるかどうかという問題にいつも直面していましたね。3ヶ月間サツマイモすら手に入らず、その間をパパイヤを食べて凌ぐなんてことも珍しくなかった。幼いながら苦労の連続でしたが、乗り越えることができたのは父の厳しい指導があったからです。父は待ち合わせの2時間前には現地入りするくらいとても規律正しい性格でした。教員だったからかもしれません。
ある日、兄弟と海へ魚捕りに行きました。今のように道路はアスファルトで整備されていなくて、砂利道ですよ。その日、裸足で歩いてたら親指の爪がはがれてしまい、血だらけになって帰りました。そのとき、お父さんは私になんて言ったと思います?「そんな怪我でなに泣いてるんだ!」と、そういう厳しさもありました。父の教育のおかげで忍耐力、粘り強さ、独立性が身に着いたんだと思います。
畑仕事における牛とは、水牛のことを指す。一見穏やかだが、オス同士が向き合うとケンカに発展するので要注意
格差への疑問から学業の道へ
小さい頃から重要な仕事は牛当番の大叔父にとって、勉強はそもそも生活の一部に含まれていなかった。そんな彼がどのように学業を修めていったのだろうか?
─ 中学を卒業したのが18歳と聞きました。
Faki:地元に中学校ができたのは小学校卒業から3年後のことでした。中学に入学しても教室がまだ完成しておらず、小学校の空き教室やグラウンドで授業を受けてましたね。昼休みや長期休みのときは海岸へ行き砂や砂利を運び、生徒みんなで教室を建てるのを手伝った。はっきり言って3年間何を勉強しているのか分からなかった。小学校は5年間しか学ばず、中学もまともに勉強していなかったから、入学できる高校も限られていました。花蓮の専門学校に進学するも学費が払えず1年で休学。玉里鎮の安通(温泉地)で兄の山仕事をしばらく手伝いました。
─ 生活を優先せざるを得ない。
Faki:結局、花蓮の学校は中退。翌年、転機が訪れます。兄(吉男)に誘われ初めて台北を訪れ、都市部の生活を目の当たりにし大きな衝撃を受けました。「なぜ都市部と部落でこんなにも生活の格差があるのか」ということ。「何か理由が必ずあるはずだ。それを解くために、勉強したほうがわかるだろう」と思いました。このときのショックが私の人生を変える決定的な瞬間でした。それから、台北の高校を受験しなんとか入学した矢先、またも学費問題で休学することになりました。
─ 休学の連続(笑)
Faki:安通に戻り父と山を開墾した日の夜、暗い工寮(休憩所)でひとり将来のことを考えました。「このまま山仕事を一生続けるのか、それともこの山を越えて復学するのか」一晩中悩みました。同級生たちが次々と進級していくのに対し、足踏みしている自分に悔しさを感じたのかもしれません。「この山を出て、自分で決めたことを貫こう」と心に決め、両親に相談しました。幸い両親は「自由」を尊重する教育方針だったので、同意してくれました。
お金に換えられるものを山から運び、それを足しにして台北に戻り復学しました。中学を卒業するのに5年、高校卒業にも5年かかりましたね。高校をストレートに卒業した人たちに比べかなりの遅れをとった大叔父。しかし彼の中で滾る挑戦心と格差問題の原因に対する追求心は、ついに大学進学への道を開いた。
母校の卒業生名簿に姉の名をを見つける。兄、姉と同じ学校に通っていた
日本統治時代の三民小学校、グラウンドで野球をしている様子(写真提供:顏光亮)
1960 年代、救国団の山地治安維持部隊が部落を巡回し、医療ケアや学業指導を行っていた時の写真
片道切符の海外留学
高校をストレートに卒業した人たちに比べかなりの遅れをとった大叔父。しかし彼の中で滾る挑戦心と格差問題の原因に対する追求心は、ついに大学進学への道を開いた。
─ 大学時代のお話をお聞かせください。
Faki:勉強した甲斐もあり台北の国立師範大学(当時は省立師範大学)に合格しました。しかし1年経った頃、「教師になりたくない」という気持ちと、担当教師とそりが合わず中退。翌年、国立政治大学東方語文部ロシア語科に転学しました。当時はロシア語を話せる人材が重宝されていたので、大学からの補助金も支給され生活に困ることはありませんでした。
大学卒業後、兵役での1年間を経て母校の資料館で働くことになるのですが、定期的に送られてくる大量の資料を仕分けするのは大変でしたね。他方で、世界に関する書物に触れることで外国への興味と好奇心が強くなり、私の挑戦心を刺激しました。頭に思い浮かんだのは「海外留学」。外国に行って、自分がどれくらい通用するのか試してみたかったんです。目指したのは日本でした。
─ おお、ついに。
Faki:一番近い外国で、個人的にも小さい頃から日本に親しみを覚えていたから、という理由です。一方で資金は片道の航空券を買うのがやっとでした。「帰れる保証はない。手ぶらで帰りたくない。必ず何かつかんで帰ってくる」と意気込んでいました。
日本での生活は過酷でした。お金がないのでバイトは掛け持ちしないと三食まともに食べられません。朝から新宿の中華レストランで働き、鶴見の果物屋で夜6時から10時まで働いてから、4畳半の部屋に戻り、夜11時半から勉強を始める日々が続いた。帰宅したらまずテレビをつけて眠気対策をする。毎晩大好きなかっぱえびせんを食べながら勉強するのがルーティンでした。2月は寒くて辛かったな。台湾では体験したことがない寒さでしたから。
─ そこまで頑張れたのはなぜですか?
Faki:実は日本に来て1年目に慶應大学を受験したのですが落ちてしまいました。それがものすごく悔しくて、次は絶対に合格してやろうと闘志が燃えていました。バイトしながら日本語学校に通い、大学の授業を聴講して、わからないことは調べる。それをひたすら繰り返しました。2回目の大学受験で慶応義塾大学と東京大学大学院社会学研究科に合格することができました。
─ 並々ならぬ努力だと思います。
Faki:修士課程時代の苦労話もありますよ(笑)。修士論文提出の2ヶ月前、車にひかれて右肩を負傷しました。肩から腕が動かせない、でも肘から手は動けるので肘を机に置き、原稿用紙を斜めにして論文を書きあげた。当時はパソコンもスマホもないから、一文字一文字手書きですよ。自分でも提出できたことに驚きました。無事に修士課程を修了し、そのまま同じ学科の博士課程に進学しました。
博士課程のときもハプニングが起こりました。ソ連のフルシチョフを研究テーマにした論文を提出後、審査に1年間かかるので、その間、日立の工場で働いていました。口頭試験を1週間後に控えた朝のラジオ体操で突然倒れたんですよ。診察結果は胃潰瘍、内臓が出血しており、その場で入院手続きを迫られました。入院したら確実に試験に間に合わず、延期したら次はいつになるかわからない。ここは踏ん張ってやり遂げようと思ったね。医師からは反対されましたが、最終的にはその状態で口頭試験に臨みました。試験当日、お腹が痛みながらも試験管の質問に答えて手ごたえを感じていたのですが、だんだんと意識が朦朧としはじめてきたんですよ、だって4時間も答えっぱなしだったから!あのときは本当にもうだめかと思いました。






大叔父の武勇伝のなかでも、この話は最も手に汗握る。幼いころに父に厳しく育てられた経験が、彼の強靭な精神をつくりあげた。スポーツの試合中に怪我を負いながらプレーできるのはアドレナリンが出て興奮状態により痛みに鈍感になるらしいが、大叔父のはそれではない。精神力のみで困難を乗り越えたことに毎回唖然としてしまう。
逆手に取った計画的反抗
台湾で歴代初の東京大学大学院社会学研究科の博士号取得の報は、大叔父を意外な展開へと誘った。
─ 我對您的堅持與努力至深佩服。
Faki:口頭試験の翌日、すぐに入院しました。退院して間もなく、中国国民党東京支部のトップから立法委員(国会議員)に立候補しないかと声が掛かりました。このときの私は純粋な気持ちで政治家への道に進むか考えていました。博士課程に進んだタイミングから、帰国後は教師になって村の助けをしたいと思っていました。でも、政治家になったら、台湾原住民のための法律や制度などをトップダウンでつくれる、もっと早く自分の家族や部族を助けられると考え、党のオファーを受け入れました。
その直後(国民党系メディアの)中央日報の新聞に「山地青年蔡中涵、東大社会学博士号取得」という記事の見出しが出ました。党は私の学歴をイメージアップのために利用したかったのだとわかり、頭にきましたね。「それなら私も彼らを利用してやる」と決めました。
─ 1986年の初当選から18年間にわたって立法院委員を務めました。主にどのようなことに尽力されたのですか?
Faki:当時、台湾では戒厳令が解除され社会運動が活発化していました。台湾原住民の正名運動もそのひとつ。私も先頭に立ち、政府に対して「土地の返還」「原住民専門の行政機関の発足」「正名」を求めました。社会運動はあくまで運動にすぎません、しかし私なら立法院への発言権もあるし、彼らの要求を実現するための法律をつくることもできます。
1996年に行政機関である「原住民族委員会」が設立されました。中央の行政機関ができたわけですが、地方の自治を任せられる人材が不足していました。そこで1998年に原住民族教育法が成立され、教育カリキュラムに台湾原住族の歴史や文化を多く反映させ、必要な人材の育成、原住民族の持続的発展と福祉向上を目的としています。今まで発言力の弱い民族に私のような原住民族出身の政治家が現れて、言いたいことを言ってくれる。だから都市部の票は結構取れたんですよ。都市部で働く原住民の人たちは地方に住む家族に仕送りをするから、家族に「この人に投票して」って働きかけてくれたのかもしれません。6期連続で立法委員を続けられたひとつの理由だと思います。
台湾原住民正名運動のデモ参加者に敬意を表する場面。中央でマイクを持つのは、当時の立法委員・蔡中涵
出典:『臺灣原住民族運動史料彙編 ( 上 )』 2021.12(原住民族委員會)
立法委員在任期に南アフリカの故ネルソンマンデラ大統領と握手を交わした
大叔父がくぐり抜けた苦難は、言葉で容易に語れるものではない。博士号を手にしたことで政治の舞台に巻き込まれもしたが、彼はその状況を巧みに利用し、強かに自らの使命を貫いた。運命の歯車が思いがけない形で噛み合い、彼自身にとっても、台湾の原住民族社会にとっても、歴史に刻まれる激動の瞬間となったに違いない。
2つの文化の「合流」がつくりだす台湾
政治家時代に数々の功績を上げ、台湾原住民族の暮らしにプラスになることも増えた。一方で、経済格差や文化継承、教育など未だ課題が残されている。さいごに、大叔父が考える理想の社会について語ってもらった。
─ Fakiの考える理想的な台湾社会のかたちについてお聞きしたいです。
Faki:ひとつの発信をしていきたい。台湾の文化というのは、400年前に中国大陸から来た漢民族(閩南、客家含む)と約5,000年前にオーストロネシア語族(今の台湾原住民族)の2つの文化が「合流」した結果、成り立っていると考えています。民族間の結婚、共生、共通しているものも多い。数百年かけて2つの文化がぶつかりあいながらできたオリジナルな文化なのです。台湾文化を語るときに原住民族文化も漢民族文化も、1つでも欠けたらだめ。こういう概念を理解すれば経済的にも文化的にも、もっと助け合えるんじゃないかな。近頃の台湾社会の動向を見ていると、合流した文化が引き剥がされようとしているように感じています。たとえば、発言力ある人たちの台湾意識には漢民族文化ばかりを押し出し、原住民文化が入っていない。相互関係のはずが、偏りが出始めていることに危機感を覚えています。政治家を引退後、大学の講義や講演会で上記のような話を必ずしています。
「お互い手をつなぎましょうよ!アミ族の伝統舞踊のように!」と。
台湾文化を因数分解すると、2つの文化が緩やかに時間をかけて結合していることがわかる。それが台湾の「今」なのである。彼が辿り着いた台湾観は深い洞察に満ちていた。大叔父は大学で教鞭を取る傍ら、台湾原住民族文化の保存のために歴史事件の研究・調査、年配者から貴重な経験を聞き書きしたり、オンラインのアミ語辞典の監修と編纂に携わっている。波乱万丈な彼の人生を一度のインタビューですべてを聞き取ることは不可能である。私が聞いたことも氷山の一角だろう。しかしながら、大叔父のことを知ることで「ルーツ探し」の手がかりを得れたことは素直にありがたい。
物静かだが貫禄ある佇まいは10年前も今も変わらない。彼の見つめる先にはいったい何が見えているのだろうか?希望か失望か、真意を掴めずにいる私は彼の放つ不思議な魅力にこれからも取り憑かれ続けると思う。

大叔父と大叔母の写真:イギリス南部のプリマス市にある、千年の歴史を持つ古い教会を見学
Edit:Toranari Miyada
Photos:Chung-Han Tsai,Sanmin Elementary School Chenggong Township Taitung Hsin-Kang Junior High School, Toranari Miyada
Special Thanks:Sanmin Elementary School Chenggong Township,Taitung Hsin-Kang Junior High School

















































