Dialogue
Iwan Nawi × Safulo A.Cikatopay

原住民族推動的另一場台灣民主化
伊萬・納威(Iwan Nawi) × 蔡中涵(Safulo Alik Cikatopay)
台湾原住民が動かした、もうひとつの民主化
1995年12月,台灣政治迎來了重大的轉折。第三屆立法委員選舉結果出爐,長期保持一黨獨大優勢的中國國民黨席次減少、民主進步黨席次躍升,而新黨則作為第三勢力興起,使得台灣立法院呈現前所未見的「三強鼎立」局面。因為沒有任何一個政黨單獨過半,立委投票時僅數席之差即可決定重大政策。無論是制度或政治層面,當時的台灣正處在歷史的關鍵時刻。尤其引人注目的是,在164席中僅有6席的原住民族立法委員,他們的動向成為左右台灣政治和原住民族命運的「關鍵少數」。在這場緊張的政治漩渦中,有一位不引人注目的推手──她就是伊萬・納威(Iwan Nawi)。當時她擔任立法委員蔡中涵教授的國會助理,日夜奔波忙碌著。雖未真正地站上議事堂,但在議場背後,她將看不見的齒輪一個個咬合在一起。我們邀請伊萬委員與蔡中涵教授回顧當時情景,談談他們如何見證原住民族在社會的發展、乃至於台灣民主化的重要歷史轉捩點,以及在歷經種種困難後達成使命的成就與心境。
台灣考試院的辦公室位於台北市文山區
伊萬委員與蔡中涵教授的相遇
伊萬委員生於南投縣仁愛郷,出生自一個賽德克族家庭。因為家境並不富裕,她在大學時期一邊讀書、一邊打工以支付學費與生活費。她住在基督長老教會的原住民學生宿舍時,有一天牧師問她:「想不想到原住民族運動組織工作嗎?」在那句話的引領下,她走進了名為「原住民權利促進會(原權會)的社會團體。隨後,她開始出席同樓層另一個社會團體「原住民族發展協會」的會議,也正是在那裡,她遇見了日後建立深厚信賴關係的立法委員蔡中涵。


「使命必達」的十年
不久後,原權會因財務困境停辦,伊萬委員也因此失去了工作。於是蔡中涵教授便邀請她:「要不要來我這裡工作?」從此,她開啟了長達十年以上的秘書職涯。在辦公室裡,協助行政文書整理、政策資料分析、會議紀錄翻譯、媒體應對準備等業務,但她未因工作繁忙而停下學習的腳步。利用閒暇時間能攻讀國立政治大學研究所,正是因為蔡中涵教授鼓勵她持續學習並給予學業上需要的幫助。學業之外,等待她的是更為艱辛的日子──花蓮及台東地區的選舉助選和為民服務跑行程,她走訪一個個部落,日復一日向選民說明政見與時事並爭取支持。她跑行程時都是她獨自一人完成的。
「其實,我原本很怕在人前出頭。」她笑著說,但她從未中途放棄任何被交付的工作。將「使命必達」視為座右銘的她,以責任感與行動力逐漸獲得蔡中涵教授的信任,不久之後便置身於台灣政治史上極具影響力的一場重大改革浪潮裡。

以政治生命作為賭注的戰士與幕後推手
1992年立法院修訂《就業服務法》時就把「山胞」改為「原住民」,伊萬委員認為當時蔡中涵在立法的作為,對那時候的原住族正名運動打了一劑強心針,鼓舞了1994年8月1日,第三次修憲將「原住民」三個字首次被寫入《中華民國憲法增修條文》,象徵著國家層級對原住民族存在的正式承認。這不僅是一個正名,更進而對制度與社會結構本身發起挑戰的成果,同時也標誌著台灣原住民族進擊的號角。



1996年2月,立法院展開正副院長選舉的激烈攻防。民進黨、新黨與無黨籍立委聯合對抗國民黨,發動所謂「二月政改」,挑戰台灣的傳統政治結構推動更開放的民主政治。而掌握這場攻防戰的關鍵是蔡中涵教授與瓦歷斯・貝林委員這兩位原住民立委。
補充說明當時立法院的情勢:在164個席次當中,執政黨國民黨掌控85席,在野黨系統──包括民進黨、新黨與無黨籍──合計79席,這是中華民國史上首度形成朝野勢均力敵的局面。換言之,只要國民黨內部出現與政黨意見不同的人,政權運作就可能陷入危機。
蔡中涵教授與瓦歷斯・貝林委員作為國民黨成員,提出設立「行政院原住民委員會」(1997年再次修憲正名為「原住民族」,更名為原住民族委員會),作為談判籌碼與在野勢力協商。
「我們最大的目標是設立一個原住民族專屬的中央政府機關。當時民進黨、新黨和無黨聯盟都堅決支持我們的想法,所以我們決定與他們合作。」蔡中涵教授臉上再現昔日的堅定。
在這場協商裡,默默擔任幕後推手的其實是伊萬委員。因兩位委員身分受限而無法自由行動,於是就由她負責與在野黨聯絡,進行文書審査、意見整合及議決前的遊說工作,一肩承擔所有幕後事宜。
「若沒有她,原住民族委員會根本無法成立。」蔡中涵教授再次肯定她的功勞。

在2月1日正副院長選舉,以及2月23日行政院長同意權投票這兩大關鍵時刻,兩位原住民委員的票都對政局起了決定性的作用,最終原住民族委員會得以成立。然而,這項共識也帶來了代價:蔡中涵教授與瓦歷斯・貝林委員被國民黨以違反黨紀為由開除黨籍並停職。

為何他們願冒如此政治風險?面對這個問題,伊萬委員注視蔡中涵教授,緩緩說道:「當時他們是以政治生命為賭注,不為保身,而是為原住民族的未來做選擇,心中民意遠比黨意高。」
民族教育的前途
原住民族委員會的成立,是台灣原住民族政策結構轉型的象徵。然而,它不是一根可以一舉解決所有問題的魔法棒。相反,在制度建立之後,過去被忽略的問題逐漸浮現,其中最大的挑戰之一便是教育。
1997年蔡中涵提案制定「原住民族教育法」主張要建立原住民族教育體系,「原住民族教育究竟應由教育部主管,還是應由原住民族委員會負責?」這兩者間模糊的職權劃分,自1990年代後期起便困擾著台灣行政體制至2000年代初期。教育部主張教育應屬國家整體架構,原民會則主張民族教育需建立根植於原住民族文化與知識系統的教育制度,但實務上兩者皆難以因應複雜現場。
「民族教育並非『只是給山地孩子優待』,而是要把我們的語言、記憶與世界觀傳給下一代,這是我們的文化責任。」伊萬委員語氣堅定。教育不只是知識傳遞,也是一種文化承續。

1998年《原住民教育法》終於通過。但接下來的十年依然充滿挑戰。因為經費不足,獎助學金與營養午餐等短期措施被優先推行,而真正核心的語言、教材、師資培育與課程設計等議題,卻難以推動。儘管如此,族語教育逐漸展開,各族語教師培訓也開始進行。語言復振的努力終於在2019年《國家語言發展法》中取得突破──原住民族語被認定為代表國家的語言之一。然而,伊萬委員不以此滿足:「法律只是起點,如果沒有執行者的熱忱與理解,法條不過是紙上談兵。」她展現持續推進的決心。
持續成為羅盤
「原住民族委員會不是單純的只是行政機關,更象徵著原住民族存在標誌。」蔡中涵教授的這句話,讓伊萬委員深深認同。如今,伊萬委員在考試院任職,負責原住民族相關的人事與制度設計。她從國家制度的核心內部著手,配置必要的人才、捍衛權益,這正是最根本的「政治」現場。
「原住民擔任重要職位,其本身就具有意義。」她強調。
以教育政策為例,伊萬委員認為「教育自治」是下一項重大議題。根據自身語言與價值觀建立教育制度,可能與國家政策發生衝突,但唯有無懼衝突,透過對話與實驗前行,制度才能生根。族語教育正是象徵,儘管目前已被列為代表國家的語言之一,蔡中涵教授提出更進一步的建議:只認定只為國家語言,並没有什麼意義,應該要定為「官方語言」才能夠起上行下效的。雖然持續受到師資與教材不足的困擾,伊萬委員卻仍一步步在制度中培育語言教育的萌芽。

「課題堆積如山,理想難以全面實現。但正因為行政機關中設有原住民族委員會,才能讓事情得以逐步實現。因此,我們絕不能停止前進的腳步。」為了讓制度能「真正地活著」般存在,至今仍須不斷地質疑與行動。光是創立制度是不夠的,制度必須被運用且不斷演進,才能成為真正的制度。

● 伊萬・納威(Iwan Nawi)/ 政治人物・學者
賽德克族,國立政治大學民族學系博士。曾任國會助理、國立政治大學民族學系兼任助理教授、原住民族委員會前政務副主任委員、考試院第13屆考試委員,現任為第14屆考試委員。
● 蔡中涵(Safulo Alik Cikatopay)/ 政治人物・學者
阿美族,東京大學社會學博士。曾任五屆立法委員,環球科技大學原住民在職班創辦人兼教授,現任為財團法人台灣原住民文教基金會董事長。
Text & Photo:Toranari Miyada
Special Thanks:Taiwan Examination Yuan
1995年12月、台湾政治に大きな転機が訪れた。第三期立法委員選挙の結果、長年一党優位を保ってきた中国国民党は議席を減らし、民進党が躍進。さらに新党が第三勢力として浮上し、台湾の立法院(日本の国会に相当)はかつてない「三強鼎立」の様相を呈する。議会での単独過半数を有する政党はなくなり、数議席の違いが重大な政治的決定をもたらす状況が到来する。制度的にも、政治的にも、台湾は大きな分岐点に立っていた。とりわけ注目されたのが、全164議席中のわずか6席しかない原住民族立法委員の存在だった。彼らの動向が、原住民族の行方を左右しうる「キープレイヤー」となったのだ。この緊張感あふれる政治の渦中に、ひとりの静かな原動力がいた。彼女の名は、伊萬・納威(Iwan Nawi)。当時の立法委員蔡中涵教授のもと秘書として奔走していた。議場に立つことこそなかったが、議場を動かす人々の背後で、見えない歯車を一つひとつ噛み合わせていった。
原住民族の社会進出ひいては台湾の民主化に大きな影響を与えた伊萬委員と蔡中涵教授のお二人に当時のことを振り返ってもらい、歴史の転換点に立ち会った心境や、苦難を乗り越えて成し遂げたことについてお話を伺った。
台灣考試院的辦公室位於台北市文山區
伊萬・納威と蔡中涵の出会い
伊萬委員は南投県仁愛郷、セデック族の家庭に生まれ育った。決して裕福とは言えない環境の中、大学では学費と生活費を自力でまかないながら、アルバイトに追われる日々を送っていた。そんなある日、教会の学生寮で暮らしていた彼女に、牧師が声をかける。「原住民族のために働いてみないか?」。その言葉に導かれるように、彼女は「原住民権利促進会」という小さな市民団体に足を踏み入れた。やがて同じ建物に入っていた別の団体の会議に顔を出すようになり、そこで出会ったのが後に深い信頼関係を築くことになる立法委員・蔡中涵だった。


「使命必達」で走り抜けた10年
しばらくして、促進会が財政難で閉鎖され職場を失った伊萬委員。蔡教授は彼女に「うちで働かないか?」と声をかける。そうして始まった伊萬の秘書としてのキャリアは、10年以上にも及ぶ。事務所では行政文書の整理、政策資料の分析、議事録の翻訳、メディア対応の準備まで、幅広い業務を一手に担った。日々のなかでも、彼女は学びを止めなかった。国立政治大学大学院へ進学できたのは、蔡教授が学問に励むよう促し、学業支援をしてくれたからだった。
学業の傍ら、彼女にはより過酷な日々が待っていた。花蓮・台東地域での選挙運動。半年間、部落を一つひとつ回って有権者に支援を呼びかける日々。すべてをひとりでこなした。
「実は、元々人前に出るのが苦手だったんです」
と笑う彼女だが、任された仕事を途中で投げ出すことはなかった。「使命必達(任されたことは必ずやり遂げる)」を座右の銘とする伊萬の責任感と行動力は、次第に蔡教授の信頼を得ていった。やがて2人は、台湾政治の歴史に刻まれる一大改革の渦中に身を置くことになる。

政治生命を賭けた者と黒子の存在
1992年、立法院において《就業服務法(就業サービス法)》が改正された際、それまで法律上で用いられていた「山胞(山地同胞)」という呼称が、「原住民」へと改められた。伊萬委員は、当時この法案に携わっていた蔡中涵委員の働きが、当時の原住民族正名運動にとって「まさに強心剤のような効果をもたらした」と振り返る。そして、1994年8月1日、台湾の憲法に「原住民」の3文字が記され、国レベルで正式に存在が承認されたのだ。ただのラベルではなく、制度と社会の構造そのものに挑戦した成果であり、同時に台湾原住民族の進撃の合図でもあった。



1996年2月、立法院では正副院長の選出をめぐる激しい攻防が展開された。民進党、新党、無所属が連携し、国民党に対抗する「二月政改」は、台湾政治の構造を変える挑戦だった。その鍵を握ったのが、蔡中涵委員と瓦歷斯・貝林(Walis Pelin)委員の二人の原住民立法委員だった。
当時の立法院の状況を補足すると、164議席中、与党である国民党が85議席、対して野党の民主進歩党(民進党)、新党、無所属が合わせて79議席という、中華民国史上初の与党と野党が拮抗する構図となった。つまり、国民党内で意見対立が起きると政権運営がたちまち危うくなるという状況であった。
国民党に所属していた蔡委員と瓦歷斯委員は、交渉の切り札として行政院原住民委員会(後に原住民族委員会に改名)の設立を掲げ、野党勢力との交渉に臨む。
「私たちの最大の目標は、原住民専属の中央政府機関を設立することでした。当時、民進党は私たちの考えを支持してくれたのです。だから彼らと連携することに決めました」と蔡教授の顔にかつての強い決意がよみがえる。
実はこの交渉の舞台裏で黒子に徹していたのが、伊萬委員だった。立場上、自由に動けない二人に変わり、野党との連絡、文書の精査、意見調整、議決前の根回しなど、すべてを見えないところで支えていたのが彼女だった。
「彼女がいなければ、原住民族委員会はできなかった」と蔡教授は彼女の功績を改めて称える。

2月1日の正副院長の選出と、2月23日の行政院長の同意権行使という2つの節目において、二人の票が政局を決定づけた。そして、原住民族委員会の設立が合意された。しかし、この合意には代償があった。蔡と瓦歷斯は、国民党から「党の方針に反した」として除名・停職処分を受ける。政治的リスクを負ってまで、なぜ彼らはこの決断を下したのか──その問いに、伊萬委員は蔡教授の顔を見つめながら、こう口を開いた。
「彼らは政治生命を賭けていました。保身のためではなく、原住民の未来のための選択をしたのです」
あらゆるタイミングがうまく重ならなければ実現しなかったこの”企み”の裏には、正名運動から積み上げてきた無数の人々による努力があったことを忘れてはならない。

あらゆるタイミングがうまく重ならなければ実現しなかったこの”企み”の裏には、正名運動から積み上げてきた無数の人々による努力があったことを忘れてはならない。
民族教育の行く末
原住民族委員会の設立は、台湾における原住民族政策の「構造転換」を象徴する出来事だった。しかし、それはすべての問題を一挙に解決する“魔法の杖”ではなかった。むしろ、制度が整備され始めたことで、それまで「無視されてきたこと」が顕在化していくことになる。中でも最も大きな課題のひとつが、教育である。
「原住民教育は、教育部の所管なのか?それとも原住民族委員会が担うべきなのか?」
あやふやな住み分けに、1990年代後半から2000年代初頭にかけての台湾行政を悩ませ続けた。教育部は一貫して「教育は国家全体の枠組みで行うべき」と主張し、原民会は「原住民族の文化と知識体系に根ざした教育制度が必要だ」と訴える。しかし、実際のところ、どちらの機関も現場の複雑さに対応しきれていなかった。
「民族教育とは、単に『山地に住む子どもに優遇措置を』ということではありません。私たちの言語、記憶、世界観を次世代に伝えるという、文化的責任そのものなんです」と伊萬委員は力を込めて話す。教育とは知識の伝達だけではなく、文化の継承でもあるのだと。

1998年、蔡中涵委員の提案で「原住民教育法」がようやく成立する。しかし、それからの10年は苦闘の連続だった。予算の不足、奨学金や給食費など短期的な支援策ばかりが優先され、本質的な課題として言語、教材、教員育成、カリキュラム整備などにはなかなか着手できなかった。それでも徐々に族語教育が進み、各民族語の教師養成が始まる。言語復興は、2019年「国家語言発展法」によって原住民族語が国家を代表する言語の一つとして認められた。だが伊萬委員は、「法制度はあくまでスタート地点。実行する人の熱意と理解がなければ、法律はただの紙に過ぎないんです」と制度的成果に満足せず、さらなる前進を目指す姿勢を見せる。
羅針盤であり続ける
「原住民族委員会は、ただの行政機関ではなく、民族の存在そのものを象徴する場所です」──蔡教授のこの言葉に、伊萬委員は深くうなずいた。
現在、伊萬委員は考試院において、原住民族に関する人事や制度設計に携わっている。国家の制度の内側から、必要な人材を配置し、権利を守る。まさに最も根本的な「政治」の現場だ。
「原住民が主要ポストに就くこと、それ自体が意味を持つんです」と彼女は強調する。
たとえば教育政策。伊萬委員は「教育の自治」が次の大きな課題だと見ている。自らの言語と価値観に基づく教育制度の確立は、国家の政策とぶつかることもあるかもしれない。だが、衝突を恐れず、対話と実験を繰り返しながら前に進むこと。それこそが、制度を生かす力になる。族語教育はその象徴だ。現在すでに台湾を代表する言語のひとつとされているが、蔡教授は一歩踏み込んだ提案をする。
「“国家代表の言語”という位置付けにとどまらず、一つの公用語にするべき。誰もが学ばざるを得ないような環境を整えれば、自然と話せる人も、教えられる人も増えていきます」
伊萬委員も、教員や教材の不足に頭を悩ませながらも、一歩一歩、制度の中で言語教育の芽を育てている。

「課題は山積みです。すべてが理想どおりにはいきません。でも、行政機関の中に原住民族委員会があるからこそ、少しずつ実現できる。だから、私たちは歩みを止めてはいけないんです」
制度が「本当に生きたもの」となるためには、今も問い続け、動き続けなければならない。ただ作るだけでは足りない。制度は使われてこそ、そして進化してこそ、本物になるのだ。

● 伊萬・納威(Iwan Nawi)/ 政治家・学者
セデック族出身。国立政治大学民族学系博士課程修了。国会アシスタント、国立政治大学民族学系の兼任助理教授、原住民族委員会の前政務副主任委員、考試院(台湾の公務員試験機関)第13期の考試委員を歴任し、現在は第14期の考試委員を務めている。
● 蔡中涵(Safulo Alik Cikatopay)/ 政治家・学者
アミ族出身。東京大学社会学博士課程修了。立法委員を5期務めたほか、環球科技大学の原住民社会人クラスの開設者であり教授。現在は財団法人台湾原住民文化教育基金会の理事長を務めている。
Text & Photo:Toranari Miyada
Special Thanks:Taiwan Examination Yuan








































