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Column

Madawdaw’s Roots

光之彼方 ─ 追尋 Madawdaw 的足跡

Beyond Where the Light Shines

光の差す向こう側 Madawdaw の足跡をたどって

疑問,是沒有盡頭的。

當我得知一個事實時,便會探究他發生的原因,而當我在過程中又產生新的疑問時,我會再一次追尋答案。面對像藤蔓般不斷延伸的疑問,唯一能畫下句點的方法,就是等到自己心服口服的那一刻為止。我的根源所在——台東縣成功鎮三民里的麻荖漏(以下Madawdaw)部落,位於成功鎮的中心地帶。第一次造訪時,這個小鎮的景象給我一種奇妙的違和感。朝海邊走去,可以看到漁港;在鎮上漫步,會注意到許多基督教教堂;往山的方向走,則是多數原住民聚居的部落。我不禁疑惑:這樣的反差究竟是從什麼時候開始形成的,而這中間又經歷了什麼過程呢?關於Madawdaw名稱的由來眾說紛紜,但由於「dawdaw」在阿美語中意指燈具、油燈、火把等,如今人們傾向將它作為象徵「光」的正面意涵來使用。那麼,這道「光」究竟從何處照入,又照亮了什麼?而在光所指向的另一側,又有著什麼風景呢?我希望以小鎮走過的歷史為線索,追尋屬於自己的根源。

※本文中所引用的歷史沿革與事實,多參考台東縣成功鎮公所出版的《成功鎮志》。由於文中將出現大量台灣地名,建議對台灣地理不熟悉的讀者可搭配地圖閱讀。

台東縣成功鎮位於麻老漏步道終點的「彩虹瀑布」,是臺灣十大名瀑之一,天氣晴朗時,陽光映照下會出現彩虹,與層層山林交織成夢幻的景色

多民族交織的成功鎮起源

海洋與山脈之間的細長地帶,自遠古以來便留有人類生活的痕跡。考古發掘顯示,這裡曾出土舊石器時代末期至新石器時代的工具與遺物,證明此地數千年前便有人類在這裡活動。小鎮面向的海洋擁有豐饒的漁場,身後則是巍峨的海岸山脈稜線。這樣的地形雖然限制了人與物的流通,卻也孕育了此地獨特的文化。在阿美族定居之前,這裡零星分布著被統稱為平埔族的平地原住民。17世紀時,開始有漢人與他們進行交易,但由於清朝初期頒布渡海禁令,來自福建、廣東的移民長期受到限制,這裡與外界的接觸十分緩慢。禁令解除後,漢人開始大量移入,並透過與平埔族通婚與交易,文化逐漸融合。19世紀中葉,清朝以成廣澳(今成功鎮忠孝里小港)為據點開拓東部,港口小鎮聚集了平埔族、阿美族、漢人等多元族群,在合作與衝突之間,形成了獨特的交流圈。

成廣澳曾是成功鎮的重要港口與商業據點,如今的成廣澳文化地景成為呈現其歷史記憶的象徵場所,照片是成廣澳文化地景以1916年創建的廣恆發商號遺跡重現,昔為東海岸最大雜貨店,今僅存洋樓殘跡

成廣澳曾是成功鎮的重要港口與商業據點,如今的成廣澳文化地景成為呈現其歷史記憶的象徵場所,照片是成廣澳文化地景以1916年創建的廣恆發商號遺跡重現,昔為東海岸最大雜貨店,今僅存洋樓殘跡

民族與文化交匯的「十字路口」

阿美族是台灣人口最多的原住民族,分布整個東海岸,橫跨花蓮、台東,直至南端的屏東。在族人的傳說中,祖先是渡海而來的,但實際的歷史更為複雜。自古以來,他們以花東縱谷平原為起點,以小部落為單位沿海岸遷徙,找到合適的漁場與農地便建立聚落。這樣的遷徙,塑造了海岸、山地、平原等多元的生活圈。依生活與語言特徵,大致可分為北部的秀姑巒阿美、中部的海岸阿美與南部的卑南阿美。而成功鎮正是南北兩個系統交會之處,18至19世紀初,來自北邊花蓮一帶的族人,與來自南邊台東、恆春一帶的族人往來,使得兩地的文化與語言相互融合。而自1830年代起,因耕地不足、資源利用改變、跨族通婚與衝突,以及自然災害等因素,大規模人口遷徙頻繁發生,新的聚落也陸續形成。
Madawdaw便是其中之一。此地原為都歷社族人耕作之地,因大海嘯而荒廢之後,由自北方遷來的阿美族於此建立部落。日治時期,又有來自恆春、都蘭、八里芒的人加入,形成海岸系與卑南系共存的特殊聚落,因此這裡有「海岸系阿美的南限、卑南系阿美的北限」之稱。村落透過血緣與婚姻緊密連結,以頭目為中心,依年齡階級分工從事農耕與漁撈。東臨太平洋、西倚海岸山脈的地理條件,也使這裡成為民族與文化交匯的「十字路口」。

新港漁港於1932年完工,是東臺灣最大人工漁港,促進成廣澳地區發展。設有防波堤,可容納40艘以上漁船,帶動漁業與地方經濟成長
来源:新港漁港 / 撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270682

新港漁港於1932年完工,是東臺灣最大人工漁港,促進成廣澳地區發展。設有防波堤,可容納40艘以上漁船,帶動漁業與地方經濟成長
来源:新港漁港 / 撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270682

開拓・高壓統治・復興 ── Madawdaw 的歷程

至19世紀中期,清朝仍實施渡海禁令,限制東部開拓;解禁後,漢人以成廣澳為據點從事農業與商業,並與南北的原住民交易。清末時期,成廣澳成為海運樞紐與軍事重鎮,人們在此興建廟宇、學校、灌溉設施。麻荖漏在保有阿美族社會結構的同時,與漢人、平埔族的交流也日益加深。

阿美族以年齡分階層,少年在集會所接受成人訓練。新港集會所是自治與祭典中心
来源:撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270770

阿美族以年齡分階層,少年在集會所接受成人訓練。新港集會所是自治與祭典中心
来源:撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270770

日治時期,透過行政制度與土地調查,部落被納入國家的統治網絡,共有地被私有化,頭目與年齡階級的職責功能被行政官與警察取代。道路、漁港與鐵路的建設大量徵用阿美族勞力,且多為無償勞動與工作條件嚴苛。1930年代,由於長期高壓統治、武器沒收與強迫勞役,最終引發人民反抗,爆發了台東史上規模最大的抗日行動——「麻荖漏事件」,造成大量傷亡。
二戰後,隨著行政制度的重組,麻荖漏被改稱為「三民里」。自1970年代起,住宅開發使得漢人移入激增。信仰方面,戰後初期基督教在此地迅速傳播,豐年祭自1952年後中斷,直至1990年代中期才由有志之士復辦。

madawdaw阿美族事件紀念碑
来源:撰寫者:高逸豪 / 描述文字授權:CC BY 3.0 TW + / 建檔單位:台東縣政府文化處 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Place&id=274055

madawdaw阿美族事件紀念碑
来源:撰寫者:高逸豪 / 描述文字授權:CC BY 3.0 TW + / 建檔單位:台東縣政府文化處 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Place&id=274055

Madawdaw 的現況位置

今日的麻荖漏部落,雖以阿美族居民為多數,但也有漢人與其他族群共居,是熱鬧的混居地區。在學校與社區活動中,跨族群交流已成日常。許多年輕人因求學與就業前往都市,但每逢返鄉時節,仍會參加Kiloma’an(豐年祭)或婚喪喜慶,與親友再度相聚。即便身在城市,願意維繫與部落聯繫的人不在少數。
隨著台灣民族意識的提升,不少青年開始重新審視自身的身份認同。近年來,青年們主導著Madawdaw長期中斷的阿美族文化復振工作。
要將文化延續至未來,關鍵並非只是在形式上重現儀式,而是要在日常生活中培養作為阿美族人的心:說阿美語、學習歌舞、了解土地歷史,並思考如何與外來的文化與制度相互調和。此刻,青年們正面對這些課題。

沒有盡頭的疑問,仍在持續的探索著

被海與山懷抱的成功鎮,自史前時代起便是多民族往來、交匯並不斷變遷的地方。Madawdaw的「光」,從昔日的火把與油燈,轉化為人們的記憶與口述,如今又在年輕一代手中重新閃耀。追尋這道光的旅程,也是凝視自己血液中流淌的歷史的時刻。光的彼方,是過去與未來交織的風景。我將作為其中的一部分,持續見證這道光。
我深知,此次田野調查所得的知識只是冰山一角。在此基礎上,我嘗試追溯自己的根源。若時間允許,透過更縝密的在地訪談,我想我對根源的理解必將更為深刻。因此,如果以此作為未來的目標,或許能成為我再度踏上Madawdaw的理由。

Photo & Text:Toranari Miyada
Special Thankas:Chenggong Township Office、Chen Wei-Chen

疑問とは尽きないものである。

ひとつの事実を知るとなぜそうなったのかを探り、その過程でまた疑問が生まれたら、それを再び追究していく。芋づる式に現れる疑問に終止符を打つには、キリよく自分が納得するのを待つしかない。
私のルーツがある台東県成功鎮三民里の麻荖漏(マララウ、以下、Madawdawで表記)部落は成功鎮の中心地に位置している。初めて訪れたとき、町の姿にある種の奇妙さを感じた。海側には漁港があり、町中を歩くとたくさんのキリスト教の教会が建っていることに気づき、山のほうへ歩くと原住民が多く暮らす部落がある。このコントラストはいつから、どういう経緯で形成されていったのか疑問を持った。
Madawdawの名前の由来には諸説あるが、「dawdaw」はアミ語で灯具・油灯・松明などを意味することから、今の人々は「光」という意味をポジティブに捉えて使っている。では、その「光」はどこから差し込み、何を照らしてきたのだろうか。そして、その光の差す向こう側には何があるのだろうか。町の歩んできた歴史を手がかりに、自分のルーツをたどってみたい。

※本文で取り上げる歴史変遷や事実については、台東縣成功鎮公所が出版した『成功鎮志』を大いに参考にさせてもらった。また、台湾の地名が続出するため、台湾の地理に馴染みのない読者は地図を見ながら読むのを推奨する。

台湾・台東県成功鎮の麻荖漏(Madawdaw)步道の終点にある「虹の滝(彩虹瀑布)」、台湾十大名瀑のひとつ。晴れた日には陽光を受けて虹がかかり、森の深緑とともに幻想的な光景を生み出す

多民族が織りなす成功鎮のはじまり

台湾東海岸の中央に位置する成功鎮(旧新港)。海と山に挟まれた細長い土地には、はるか昔から人々の暮らしの痕跡が息づいている。考古学の発掘では旧石器時代末から新石器時代にかけての道具や遺物が見つかり、この地が何千年も前から人間の営みとつながっていたことを物語っている。海は豊かな漁場を抱え、背後には海岸山脈の稜線が迫る。この地形は人や物の往来を制約しながらも、独自の文化を育んできた。
アミ族が定住する以前、この地には平埔族と呼ばれる平地の原住民が点在していた。17世紀には漢人との交易が始まるが、清朝初期の渡海禁令により福建や広東からの移住は長く制限され、外部との接触は緩やかだった。禁令が解かれると漢人の進出が本格化し、平埔族との通婚や交易を通じて文化が混ざり合っていった。19世紀半ば、清朝は成廣澳(いまの成功鎮忠孝里小港)を拠点に東部開拓を進め、港町には平埔族、アミ族、漢人など多様な人々が集まり、協力と衝突を繰り返しながら独特な交流圏を築いた。

成廣澳文化地景は、1916年創建の廣恆發商号跡を再現した教育的遺構で、かつて東海岸最大の雑貨店だった。現在は洋楼の一部のみ残る。写真は、1916年創建の廣恆發商号跡を再現した教育的遺構で、かつて東海岸最大の雑貨店だった。現在は洋楼の一部のみ残る

成廣澳文化地景は、1916年創建の廣恆發商号跡を再現した教育的遺構で、かつて東海岸最大の雑貨店だった。現在は洋楼の一部のみ残る。写真は、1916年創建の廣恆發商号跡を再現した教育的遺構で、かつて東海岸最大の雑貨店だった。現在は洋楼の一部のみ残る

民族と文化の交差点

アミ族は台湾で最も人口の多い原住民族で、東海岸全域から花蓮・台東を経て南端の屏東まで広がる。彼らの伝承では「祖先は海を越えてやってきた」と語られるが、実際の歴史はもっと複雑だ。はるか昔、台東平原や花蓮平原を起点に、小さな部落単位で沿岸を移動し、良い漁場や耕地を見つけては集落を築いた。その繰り返しが、海岸、山地、平原といった多彩な生活圏を生み出していった。
暮らしや言葉から、北の秀姑巒アミ、中央の海岸アミ、南の卑南アミなどに大別される。成功鎮は南北二系統が交わる場所で、18〜19世紀初頭には北から花蓮方面の人々、南から台東・恒春方面の人々が往来し、文化的にも言語的にも混ざり合った。1830年代以降、耕地不足や資源利用の変化、他民族との婚姻や衝突、自然災害を背景に大規模な人口移動が起こり、新たな部落が次々と形成された。
Madawdawもその一つで、もとは都歴(Trik、トゥリク)社の人々が耕していた土地が大津波で荒れ地となり、その後、北方から移住してきたアミ族が集落を築いた。日本統治時代には恒春や都蘭、八里芒からも人々が加わり、海岸系と卑南系が共存する珍しい部落となったため、「海岸系アミの南限、卑南系アミの北限」と呼ばれることもある。村は血縁や婚姻で複雑に結びつき、頭目を中心に年齢階級ごとの役割分担で農業や漁労を営んでいた。東に太平洋、西に海岸山脈という地形も、民族と文化の「交差点」となった背景である。

新港漁港は1932年に完成した東台湾最大の人工漁港で、成廣澳の発展を促した。防波堤を備え40隻以上の漁船を収容し、漁業移民や地域経済の成長を支えた
引用:新港漁港 / 撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270682

新港漁港は1932年に完成した東台湾最大の人工漁港で、成廣澳の発展を促した。防波堤を備え40隻以上の漁船を収容し、漁業移民や地域経済の成長を支えた。
引用:新港漁港 / 撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270682

開拓・圧政・復興 ── Madawdawの歩み

19世紀中ごろまで中国・清朝で渡海禁令が発令されていたため、東部開拓は制限されていたが、解禁後は漢人が成廣澳を拠点に農業や商業を営み、南北の先住民と取引を行った。清末期には成廣澳が海運の要衝として軍事拠点となり、寺廟や学校、灌漑設備が整った。麻荖漏もアミ族の社会構造を保ちながら漢人や平埔(ヘイボ)族との交流を深めた。

アミ族では年齢階層ごとに組織され、青少年は集会所で成人訓練を受けた。新港の集会所は自治や祭事の中心だった
引用:撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270770

アミ族では年齢階層ごとに組織され、青少年は集会所で成人訓練を受けた。新港の集会所は自治や祭事の中心だった。
引用:撰寫者:曾乙正 / 描述文字授權:CC0 / 建檔單位:國立臺東生活美學館 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Object&id=270770

日本統治時代には行政制度や土地調査で部落が国家の統治網に組み込まれ、共有地は私有化され、首長や年齢階級の役割は行政官や警察に取って代わられた。道路や漁港、鉄道建設にはアミ族の労働力が徴用され、多くは無償かつ過酷な条件だった。1930年代には圧政や武器没収、労役強要による反発から「麻荖漏事件」と呼ばれる台東史上最大規模の抗日行動が発生し、多くの命が失われた。
戦後、行政制度の再編で麻荖漏は「三民里」となり、1970年代以降は宅地開発で漢人の流入が急増。宗教面では戦後まもなくキリスト教が広がり、豊年祭は1952年を最後に途絶えたが、1990年代半ばに有志の手で復活した。

madawdaw阿美族事件紀念碑 / マララウ事件の記念碑、日本では成廣澳事件として記録されている
来源:撰寫者:高逸豪 / 描述文字授權:CC BY 3.0 TW + / 建檔單位:台東縣政府文化處 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Place&id=274055

マララウ事件の記念碑、日本では成廣澳事件として記録されている
引用:撰寫者:高逸豪 / 描述文字授權:CC BY 3.0 TW + / 建檔單位:台東縣政府文化處 @ 國家文化記憶庫 https://tcmb.culture.tw/zh-tw/detail?indexCode=Culture_Place&id=274055

Madawdawの現在地

今のMadawdaw部落は、アミ族が多数を占めながらも、漢人やほかの民族も暮らす、にぎやかな混住地域だ。学校や地域行事では民族の垣根を越えて交流するのが当たり前になり、若い世代の多くは進学や仕事を求めて都市部へ移っていく。それでも、帰省の時期になればKiloma’an(キルマアン 豊年祭であり年越しのような祭事)や冠婚葬祭に顔を出し、親戚や友人と再びつながる。都会にいても、部落との縁を手放さない人は少なくない。また、台湾における民族意識の高まりを背景に、多くの青年が自身のアイデンティティを見つめ直す潮流が生まれている。近年、Madawdawで長らく途絶えていたアミ族文化の復興を、青年たち主導で取り組んでいる。
文化を未来へつなぐうえで大事なのは、ただ儀式を形だけ再現することではない。日々の暮らしの中で、どうやってアミ族としての心を育てていくかだ。アミ語を話すこと、歌や踊りを覚えること、土地の歴史を知ること。それらを、外から入ってきた文化や制度とどう折り合わせるか。今まさに、青年たちはこれらの課題に向き合っている。

尽きない問い、探求は続く

海と山に抱かれた成功鎮は、先史の時代から多くの民族が行き交い、交わり、形を変えながら今日まで続いてきた。Madawdawの「光」は、かつての松明やランプの灯りから、人々の記憶や語りへと姿を変え、今は若い世代の手によって再び強く灯されつつある。その光をたどる旅は、自分の血に流れる歴史を見つめ直す時間でもあった。光の差す向こう側には、過去と未来が重なり合う風景が広がっている。私はその一部として、これからもこの光を見届けていきたい。
なお、今回のフィールドワークで得られた知見が氷山の一角に過ぎないことは重々承知している。そのうえで、自分なりにルーツを追ってみた。しかし、知れば知るほど疑問は尽きない。時間が許せば、地域住民への聞き取り調査をより緻密に行うことで、ルーツへの理解は一層深まるはずだ。それを今後の宿題とすれば、Madawdawを再び訪れる口実にもなるだろう。

Photo & Text:Toranari Miyada
Special Thankas:Chenggong Township Office、Chen Wei-Chen

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