このメディアを立ち上げた当初、記念すべき1記事目に書いたのが「台湾原住民の基礎を知ろう」という内容だった。あれから3年。ありがたいことに、彼らの部落(集落と同義、社とも言う)を訪ねてフィールドワークをさせてもらい、当事者の方々や研究者に話を聞く機会にも恵まれた。本記事は、過去の入門記事をアップデートするために書こうと試みたものである。過去の記事は文化や基本情報を中心に整理してきたが、呼称をめぐる運動の背景や、歴史・政治的文脈については十分に踏み込めていなかった。
台湾原住民族を語る上で様々な切り口があることに留意しつつ、「もし、わたしが台湾原住民を語るなら」という語り口で記事を3つのテーマに分けている。
気軽に読みたい方には、ライト版の記事を入口としてすすめたい。
なお、本稿では台湾における公式な呼称にならい、基本的に「原住民/原住民族」という表記を用いる。その理由はこの先を読み進めていただきたい。
執筆にあたり参照した文献については末尾に紹介している。

人類史上初の大規模な航海民族
学問的アプローチで台湾原住民族を見てみよう。
彼らを語るとき、しばしば「台湾に昔から住んでいた人びと」という説明で済まされてしまう。しかし学問的に見れば、彼らは「島に閉じた存在」ではなく、海を介して広がった、人類史上初の大規模な航海民族=オーストロネシア語族の重要な一角とされている。
台湾原住民族の諸言語は、フィリピンやマレーシア、インドネシア、さらにはハワイやニュージーランドのマオリ語と系統を同じくする。たとえば、数字の「5」を意味する「Lima(リマ)」という言葉は微妙な違いはあるものの、台湾原住民、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ポリネシア諸語(ハワイ語など)でほぼ同じ発音だ。

オーストロネシア語族の分布範囲。オーストロネシア語族の言語が使われている地域の北端が台湾であり、台湾は長いあいだ人びとが立ち止まってきた場所であると同時に、世界へと開かれた「出発点」であった可能性を秘めている
「特急列車説」と「のんびり小舟説」
オーストロネシア語族をめぐる説を2つ紹介しよう。
ひとつは、台湾原住民族の言語が語族内で特に古い形を保っていることから、台湾から太平洋各地へ人びとが拡散したとする仮説「特急列車説(Express to Polynesia)」である。この仮説は、学術界のみならず台湾社会にも大きな反響を呼んだ。
もう1つは、東南アジア大陸部を含め、より緩やかに人びとが移動したとする「のんびり小舟説(Slow boat)」だ。現在も学術的な決着はついていない。
ここで興味深いのは、台湾原住民族の当事者たちが特急列車説を好意的に受け止めていることだ。1語族の原点でありリーダーともなれば誇示したい気持ちはわからないでもない。そして台湾社会でも、この説は比較的好意的に語られることが多い。

なぜ「特急列車説」は歓迎されやすいのか
近年、台湾と断交する国が増えるなか、2024年12月、台湾の頼清徳現総統が「繁栄南島 智慧永続(オーストロネシア地域の繁栄のため、スマートでサステナブルの発展)」と銘打ってマーシャル諸島、ツバル、パラオの太平洋地域3カ国を外遊している。訪れた先々で頼総督は「台湾とあなた方はオーストロネシア語族という共通のルーツをもつ、家族のような緊密なパートナーだ」と強調していた。政治利用している感は否めないが、外国との結びつきを強化する後押しのためなのかもしれない。
一方で、のんびり小舟説も根強く、考古学の分野では慎重な検証が続いている。起源が定まらないことは、「正しい答えがない」という意味ではない。それは、台湾原住民族が、外部から与えられた分類や単純化に抗ってきた存在であることを示している。後述で扱う「台湾原住民族」という名前の獲得は、まさにこの文脈の延長線上にある。

台湾東部・台東県長浜郷の八仙洞
約5万年前〜数千年前にかけて人類が繰り返し居住・利用した痕跡が確認されており、台湾における最古級の人類活動の証拠を示す遺跡として評価されている
原住民という名称に込められた想い
「台湾」という地名が、台湾原住民・シラヤ族の言葉「Tayouan(ダイオワン、来訪者)」に由来する(諸説あり)ということからも原住民族の存在を抜きに台湾を語ることはできない。
日本人が「台湾原住民」と聞き、内心どこか違和感を覚えるかもしれない。それもそのはず、日本社会において「原住民」という言葉は、野蛮、未開、あるいは過去の存在といった負のニュアンスを帯びて用いられてきた歴史がある。日本では、アイヌ民族を指す際に「先住民」という呼称が一般的に選ばれていることからも、その感覚は理解しやすい。
ほとんどの書籍やメディアで、台湾原住民族の呼称の説明について定型文があるのだが、本記事もそれに倣って述べたい。
外部の支配者によって名づけられてきた過去
中国語における「先住民」には「すでに滅びた民族」という意味合いが含まれるため、台湾では避けられている。原住民の「原」には”Original”の意味があり、オランダや中国の人々がこの地を踏む遙か昔から台湾島に住む人々すなわち原住民を指す。ただし、この説明だけだでは「原住民」という言葉の重みを十分に理解できない。
彼らは長いあいだ、自ら選んだ名前ではなく、外部の支配者によって名づけられてきた。中国・清朝が台湾を管轄していた時代、台湾原住民は総じて「番(野蛮人の意)」と呼び、平地で漢化が進んだ人びとは「熟番」、山地で狩猟生活を続けていた人びとは「生番」と区別していたとされる。そこには露骨に文明社会と未開社会にいる立場・身分の序列意識が埋め込まれていた。

清代画家が描いた鹿狩りをする平埔族の風俗画(筆者撮影・国立台湾歴史博物館 所蔵)
日本統治期に入ると、「番」は「蕃」と表記を変えられるが、そのまなざしが改まったわけではない。統治の都合上、分類はより細分化され、戸籍や教育制度を通じて固定化されていった。
戦後、国民党政権のもとでは呼称は「山胞(山地同胞)」へと変わる。しかしこの言葉もまた、「山に住む人びと」という生活様式で括り、政治的主体としての存在を周縁化するものであった。名称は変われど、このときもまた自ら名前を選ぶことは叶わなかった。

当時の新聞の見出しにはっきりと「蕃人」という文字
個人の名前や地名を取り戻す「正名運動」
こうした状況が大きく動き出したのが、1980年代に入ってからである。台湾経済の成長と民主化の流れのなかで、原住民族が置かれてきた差別や不平等は、「文化が遅れているから」ではなく、社会の仕組みそのものに原因があるのではないか、という考え方が少しずつ広がっていった。

「正名運動」のデモ行進の様子(出典:台湾原住民族運動史料彙編(上))
1984年、台湾大学の学生やキリスト教会の関係者を中心に「台湾原住民権利促進会(原権会)」が結成され、原住民族は自決権を含む権利の回復を求める運動を本格化させる。その中心的な柱となったのが、個人の名前や地名を取り戻す「正名運動」だった。清朝、日本統治時代、国民党政権と支配者が移り変わるなかで、原住民族はそのたびに名前と言語の切り替え、同化を強いられてきたからである。ちなみに、3つの名前(族語名、日本語名、中国語名)を持つ人がいることも珍しくない。実際、筆者の大叔父は3つの名前を持っている。彼もまた、時代の波に翻弄される人生を歩んだ。原住民族の解放運動は、まず「名乗り直す」ことから始まったのである。

見出しには「我々は山胞ではない、原住民である」と書いてある(出典:台湾原住民族運動史料彙編(上))
その結果、1994年の憲法改正による「原住民族」という名称が中華民国憲法に明記され、1996年の原住民族委員会設置につながった。2005年には8月1日が「原住民族日」と定められている。名称の回復は、過去の是正にとどまらず、原住民族が現在進行形の主体であることを社会に示す行為だった。現在では選択制で身分証明証に族名を入れることができる。筆者の周りの友人やいとこの叔母など申請している人が増えている。
昨年、正名運動の舞台裏を筆者の大叔父であり当時の台湾原住民を代表する立法委員・蔡中涵氏と当時の彼の秘書であり、現在は考試院(台湾の公務員試験機関)の委員・伊萬・納威(Iwan Nawi)氏にインタビューした。興味ある方はぜひ読んでほしい。
「先住民」でも「早住民」でもない、わたしたちは「原住民」
正名運動の成果が理念にとどまらず制度として定着していく過程で、重要な役割を果たしたのが、1996年に行政院内に設置された原住民族委員会(当時:原住民委員会)である。これは、原住民族に関わる政策や課題を専門に扱う中央行政機関として設けられ、原住民族自身が原住民族行政を担う体制を初めて制度化したものだった。
それまで分散して扱われてきた教育、福祉、土地、文化といった問題が、原住民族という主体のもとで統合的に議論されるようになり、「原住民族」という名称は理念から政策運用の基盤へと移行していく。原住民族委員会の設立は、名前を取り戻す運動が、極めて民主的な手続きで国家制度に組み込まれたことを示す重要な転換点だったと言える。
そもそも、「原住民族」という呼称は、単なる語義の違いや言語習慣の問題として選ばれたものではない。それは、1980年代以降に展開された原住民族解放運動、なかでも正名運動のなかで、当事者たち自身が時間をかけて選び取った結果である。国民党政権側からは、「先住民」や「早住民」といった代替案も提示されたが、いずれも原住民族側によって拒否された。

時の総統・李登輝氏は国家分裂を危惧し「原住民」という呼称を認めなかった
その後、1993年の全国原住民文化会議で李登輝が「原住民」と呼称し、初めて国家元首として正式に認めた重要な転機となった(出典:台湾原住民族運動史料彙編(上))
理由ははっきりしていた。「先に住んでいた」という表現は、時間軸の事実を示すにとどまり、土地や歴史の主体としての権利を十分に言い表せない。「原」という字には、「もと」「根源」「起点」という意味がある。原住民族とは、漢人より早く住み着いた人びと、という意味ではない。この島の歴史そのものを内側から形づくってきた存在である、という自己定義なのだ。
つまり、「原住民族」という名称は、外部から与えられた呼び名ではなく、何度も否定され、議論され、その末に当事者が勝ち取った言葉なのだ。日本語の感覚だけでその是非を判断することは容易だが、その背後にあるたたかいの歴史を無視してしまえば、この言葉が持つ重みを取りこぼすことになるだろう。
筆者はこの話をさまざまな当事者や専門家からお聞きする度に心が震え、彼らの尊厳と誇りを感じずにはいられない。
参考文献
・大東和重『台湾の歴史と文化』中公新書
・新井一二三『台湾物語 「麗しの島」の過去・現在・未来』筑摩選書
・栖来ひかり『日台万華鏡 ー台湾ち日本のあいだで考えたー』書肆侃侃房
・国立民族学博物館『季刊民俗学第35巻3号』 一般社団法人 千里文化財団
・国立民族学博物館『季刊民俗学第44巻1号』 一般社団法人 千里文化財団
・カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社『美術手帖7 2024 特集先住民の現代アート』美術出版
・ヨコク研究所『YOKOKU Field Notes #01 台湾・編みなおされるルーツ』コクヨ株式会社
・葉石濤『シラヤ族の末裔 潘銀花』研文出版


