「台湾へは何月から向かわれますか?」
年明け、神戸から横浜へ引っ越して間もない頃、一人の籐細工(とうざいく)職人からInstagramにDMが届いた。
「台湾へのワーキングホリデーは5月末からの予定ですが、3月中旬に仕事で台湾へ行きます。」
そう返信すると、すぐに「それなら、私もそのタイミングで台湾へ行くので案内してもらえませんか?」と返ってきた。
そして迎えた2026年3月。
台北駅で待ち合わせた私たちは、台湾南東部・台東(タイトン)へ向かうべく、台鐵(台湾鉄道)に乗り込んだ。車窓から流れる景色を眺めながら約4時間半。台東駅の改札を抜けると、台湾アミ族の籐細工職人が出迎えてくれていた。
かくして、日本と台湾の籐細工職人による交流が始まった。
この交流は、単なる工房見学でも観光でもない。同じ素材と向き合いながらも、それぞれ異なる文化の中で技術を受け継いできた職人同士が出会い、語り、山へ入り、ともに籐に触れた貴重な時間だった。
一本のDMから始まった日台職人交流。
実に有意義で刺激に満ちた時間だった。
その交流を、記録として振り返ってみたい。
※本記事では、固有名詞である「藤木植人」を除き、植物を指す「籐」の表記に統一している。
きっかけは一本のリール動画
本題に入る前に、今回の交流に至った経緯を少し振り返ってみたい。
筆者が籐細工に出会ったのは、日本ではなく台湾だった。
2025年、台湾南東部・台東で参加したアーティスト・イン・レジデンスプログラムをきっかけに、台湾アミ族の籐細工工房「藤木植人」を取材した。それまで籐細工は、私にとってまったく馴染みのない工芸だった。
工芸に関わる仕事をしていることもあり、手仕事としての籐細工そのものに興味を惹かれた。そして何より心を動かされたのは、祖先から受け継がれてきた文化や技術と真摯に向き合い、それらを次の世代へ手渡そうと挑戦し続ける彼らの姿勢だった。作品をつくることだけが目的ではない。技術を学び、記録し、自然と向き合いながら文化そのものを未来へ受け継ごうとする取り組みは、私にとって非常に印象深いものだった。
藤木植人については、こちらの記事でも紹介しているので、ぜひご一読いただきたい。

画像を押すと記事リンクに飛びます
取材を終えた後も、「籐細工」という言葉は不思議と頭の片隅に残り続けていた。
ある日、Instagramをザッピングしていたところ、とある職人を紹介するリール動画が流れてきた。
島根県で代々籐細工をつくり続けている「松江藩籐細工」。
「え、日本にも籐細工やってるの!?」と驚いた。
実際のリール動画がこちら
それまでの私は、籐細工は台湾原住民族をはじめ、東南アジアで盛んな工芸という漠然としたイメージしか持っていなかった。だからこそ、日本にも歴史ある籐細工工房が存在していることに驚きを隠せなかった。
台湾で籐細工に出会っていなければ、その動画もきっと見過ごしていただろう。この一本の動画との出会いが、今回の交流へとつながっていくことになる。
気付けば、「一度お会いしませんか?」とスマホを叩いていた。
ありがたいことに快く受け入れてくださり、後日、神戸から深夜バスで鳥取県・米子へ向かった。
この時はまだ、その出会いが台湾へとつながることなど、想像もしていなかった。
松江藩籐細工八代目・川口さんとの出会い
川口さんが暮らす鳥取県・米子へ、深夜バスで向かった。
12月の山陰は想像以上に冷え込んでいた。早朝に到着した私は、暖を取るため駅の待合所で川口さんを待つことにした。昇り始めた朝日をぼんやり眺めていると、不意に「宮田さんですか?」と声を掛けられた。
慌てて振り返ると、寝起きのような締まりのない顔をした私の前に立っていたのが、松江藩籐細工八代目の川口さんだった。
なんとも締まらない初対面を交わした私たちは、そのまま工房へ向かった。
「松江藩籐細工」は、その名のとおり島根県松江市で受け継がれてきた伝統工芸だ。江戸時代、松江藩七代藩主の時代(江戸末期ごろ)に発展したとされ、現在も数少ない職人によって技術が受け継がれている。その伝統を受け継ぐ八代目が川口さんである。

松江藩籐細工に代々受け継がれている「花結(はなむすび)」
工房を訪れると、幸運なことに川口さんの師匠であり六代目の長崎誠先生も迎えてくださった。部屋に並ぶ作品を見せていただきながら、籐という素材のこと、制作工程のこと、松江藩籐細工の歴史、そして職人として日々考えていることまで、さまざまなお話を伺った。
恐れ多くも、長崎氏と台湾原住民の籐細工について意見交換させていただく機会にも恵まれた。
台湾では、籐は籠を編むだけでなく、住居の壁や床などの建材としても用いられてきたことを写真を交えながら紹介すると、長崎氏は、一枚一枚じっくりと写真に目を通しながら、「日本にはない使い方をしよる。歴史は日本より古いかもしれんね」と何度も唸られていた。その姿を目の当たりにし、「はるばる米子まで来て本当に良かった」と心から思ったのを覚えている。

六代目の長崎誠氏(左)と八代目の川口淳平氏(右)
気付けば、私の頭の中には台湾で出会った藤木植人の皆さんの姿が浮かんでいた。
「この人たちが出会ったら、どんな会話をするのだろう。」
「日本と台湾、それぞれの籐細工について語り合ったら、きっと面白いだろうな。」
無意識のうちに、私の好奇心はそんな光景を思い描いていた。
交流を企画しようなどという大それた考えは、その時点ではまだなかった。ただ純粋に、その場に立ち会ってみたいと思った。
別れ際、私は台湾アミ族の籐細工工房「藤木植人」のこと、そして翌年3月に仕事で台湾を訪れ、彼らの工房を訪問する予定であることを川口さんに伝えた。
「もしご都合が合えば、ご一緒にいかがですか?」
軽い気持ちでそう声を掛け、その日は工房を後にした。
それからしばらくして届いたのが、「台湾へは何月から向かわれますか?」という、あの一本のDMだった。
籐細工を通して知る、一括りでは語れない台湾原住民族の多様性

かくして約束の日、2026年3月中旬。
初めて台湾を訪れた川口さんと台北駅で合流し、一路、台東へ向かった。
台東駅に到着すると、藤木植人の皆さんが笑顔で出迎えてくれた。
自己紹介もそこそこに、工房へ着くなり作品や材料を囲みながら自然と会話が始まった。

藤木職人の工房は台東県・成功鎮にある

出迎えてくれた藤木植人代表・陳豪毅(ハオイー)氏
言葉は違っても、籐という共通言語がある。
筆者の拙い通訳を交えながらではあったが、職人同士の会話は驚くほど途切れることがなかった。
素材のこと、道具のこと、編み方のこと。
日本ではどうしているのか。台湾ではどうしているのか。

互いの違いを確かめ、共通点を見つけ、新たな発見を楽しむように、次々と質問が飛び交っていた。
なかでも特に印象に残っているのが、藤木植人代表・陳豪毅(以下、ハオイー)氏の言葉だ。
「台湾原住民族は、部族ごとに模様も、編み方も、仕上げ方も違います。アミ族にはアミ族の、プユマ族にはプユマ族の、タロコ族にはタロコ族の技法があります。私たちアミ族がタロコ族の編み方を真似することはありませんし、他の部族がアミ族の編み方を真似することもありません」
工芸の世界では、地域や産地をまたがり技術交流が行われることも少なくない。産地の伝統が実は他産地から伝わった技だった、などいった具合だ。
台湾原住民族の籐細工には、それぞれの部族が受け継いできた技法や文化を尊重し、守り継いでいくという共通認識があるという。単なる編み方の違いではなく、各部族が歩んできた歴史や生活環境から醸成された文化、アイデンティティにリスペクトを持っているのだと思う。暗黙の了解が部族間の根底には存在し、敬意を失わない関係性が築かれているのだろう。
台湾原住民族を決して一括りに語れない、多様性に富んだ民族なのだということを工芸の世界からもあらためて感じた。
山と黄籐と籐細工と
工房での交流を終えた後、藤木植人に案内してもらい、工房から車で10分ほどの山へ向かった。
ここは、彼らが日頃から管理している山だ。
台湾で籐細工に使われる「黄籐(Calamus formosanus)」は、ヤシ科のつる性植物で、低〜中海抜の広葉樹林に自生している。自立して育つ木ではなく、葉や葉柄にある鉤状の棘を使って周囲の樹木に絡みつきながら、30メートル以上にも成長する。藤木植人のスタッフは全員が山に入り、籐を一本ずつ見極めながら採取する。そうした工程を大切にしており、祖先たちが培ってきた伝統的なものづくりを現代に受け継ぎ、実践している。

木に絡みついて成長する籐。鋭い棘は、樹木をつかみながら森の上へ伸びるための「フック」の役割を果たしている(写真:林志忠 2023年9月)
山へ足を踏み入れると、高い湿度と鬱蒼と生い茂る植物に囲まれ、日本の里山とはまったく異なる景色が広がっていた。整備されていない道なき道、まるでジャングルを歩いているようだ。ハオイー氏は山刀を手に、迷いなく山を進んでいく。

一見どれも同じように見える籐だが、籐細工に適したものは限られる。若い籐は採らず、根を傷付けないよう成熟したものだけを選ぶ。鋭い棘を丁寧に落とし、木々に絡みついた数十メートルもの籐を少しずつ外していく。採取した籐はコイル状に巻き、肩に担いで山から運び出す。

棘を剥いでいる様子。このあと籐を引っ張る際の持ち手にもなる

20メートルはあっただろうか、籐は他の木に絡みつきながらてっぺんに到達する。ゆえに引きずり下ろすのも一苦労。川口さんも真剣な趣で作業を手伝う
簡単そうに見えて意外と難しい。刃を立て過ぎれば繊維を傷付けてしまい、浅すぎれば棘が残る。普段何気なく目にしている籐細工も、こうした地道な下処理があって初めて素材になる。

その場で下処理をし、巻いて運び出す
作業の合間には、採れたばかりの籐の芯も試食させてもらった。
台湾では、食用として籐を育てるほど、身近な食材だ。柔らかい芯の部分は、主にスープの具材として食べられているという。

その場で芯を剥いてくれるハオイー氏
恐る恐る口へ運ぶ。
苦い。
そして渋い。
川口さんも同じ反応だった。決して食べ慣れた味ではなかったが、身体には良さそう。
一方、この食文化はものづくりの現場では悩みの種にもなっている。
籐が食用として人気があるため、山に生えている籐が勝手に採られてしまうことがあるのだ。籐細工に使えるように育てるのにはある程度の年月が必要であり、一度採られてしまえば、未来のものづくりに使える素材も失われてしまう。
だからこそ藤木植人では、自ら山を管理し、植林も続けている。
目利きも、育て方も、採取の方法も、もともとは祖先たちが暮らしの中で培ってきた知恵だった。

ハオイー氏の説明に頷きながら耳を傾ける川口さん。
「日本では籐は自生していないので、生えている姿を見るのも今回が初めて。どんな環境で育つのか、ましてや食べられるなんて全く知らなかった」
籐細工職人として、素材への探究心は深まっていくばかりのようだ。
黄籐を挽いてみよう
山での籐採取を見学させてもらい、再び藤木植人の工房へ戻った。ここからは待ちに待った職人同士の技術交流の時間である。
まずハオイー氏が、実際に手を動かしながら籐を割り、籐籤(とうひご)をつくる工程を見せてくれた。
ナイフ一本で繊維の流れを読み、均等な幅へと裂いていく。一見すると単純な作業だが、力加減や刃の入れ方ひとつで仕上がりは大きく変わる。長年の経験が必要な工程だ。

「やってみますか?」
ハオイー氏に勧められ、川口さんも挑戦することになった。
普段、川口さんが扱うのはインドネシア産の乾燥籐。一方、この日使ったのは、数時間前に山で採れたての黄籐である。
刃を入れた瞬間、その違いがすぐに伝わったという。
「密度が高く、粘りがまったく違います」
しなやかで、それでいて驚くほど強靭。普段の感覚では思うように割ることができない。何度も刃を入れながら、少しずつ素材の癖を探っていく姿が印象的だった。
隣ではハオイー氏が手元を見つめ、必要なところだけ手本を見せる。言葉よりも、実際の手の動きで伝わる技術。職人同士だからこそ、多くを語らずとも互いに理解し合える。そんな空気が、この場には流れていた。

自前の工具で黄籐を割る川口さんと心配そうに見つめるハオイー氏

スムーズに挽くことが難しい
続いては、実際に籠を編む工程へ。
ハオイー氏が手元を見せると、今度は川口さんも自身の編み方を実演する。互いの手仕事を見せ合いながら、「ここはこうすると編みやすい」「この道具は便利だね」と、自然と会話が弾んでいく。国や言葉は違っても、同じ素材と向き合う職人同士。技術を教える・教わるというよりも、それぞれが積み重ねてきた経験を持ち寄る、穏やかな技術交流の時間が流れていた。


これこそ筆者が熱望した瞬間であり、最も見たかった光景だった。
正直、ふたりの間に入り込む余地はなく、専門的な内容までは理解できなかった。しかし、ふたりの視線は終始、手元の籐に向けられていた。同じ素材と向き合ってきた職人だからこそ通じ合える感覚が、そこには確かに存在していた。
それでいいのだ。
交流の最後には、
「日本へ持ち帰って、次に台湾来るまでに、この籐で花結びを編めるようになりたい」
そう意気込む侍魂を宿した職人のもとへ、台湾の山で育った一本の籐が託された。
台湾から米子へ、日台籐細工の展示会が実現
台湾での交流を終え、日本へ戻った川口さんのなかには、ひとつの思いが芽生えていた。
「この籐文化を、日本でも多くの人に知ってもらいたい。」
その思いは、鳥取県米子市で開催された籐細工展というかたちで実現する。

『松江藩籐細工弟子展と台湾アミ族の籐細工展(2026年5月20日〜6月)』米子しんまち天満屋にて開催された
会場には、川口さん自身の作品だけでなく、松江藩籐細工の弟子たちの作品、そして藤木植人が手がけたアミ族の作品も並んだ。初めての出会いから2ヶ月後、黄籐で編まれた籠が海を越え、日本の来場者を迎えることとなった。

ハオイー氏もわざわざ米子まで展示会を観にきてくれた
筆者も展示会にお邪魔させてもらった。
来場者からは、「台湾に先住民族がいることも、籐細工文化があることも知らなかった」「籐そのものを見るのも初めて」「日本で使われている籐とは質感がまったく違う」といったコメントが寄せられた。台湾原住民族の文化や、素材そのものが持つ力強さ、そして手仕事の美しさに感銘を受けた方も多く、実際に作品を手に取り、購入に至るという素晴らしい成果にもつながった。


交流は、これからも続く
松江藩籐細工と藤木植人。
交流の第一歩として日本の職人が台湾へ渡り、風土、素材、技を知った。今度は台湾の籐細工が日本へ渡り、異なる土地で育まれた文化や手仕事のかたちを伝えた。
日本と台湾、それぞれ異なる土地で、異なる文脈の中、同じ籐と向き合ってきた職人たちが出会ったことで、新たな交流が生まれた。それから作品展示と、販売へと発展し、台湾の籐文化を日本へ届ける新たな機会にもつながる足掛かりとなった。
2026年10月には、台湾・台東県成功鎮で開催される国際籐細工フォーラム「Rattan Renaissance Exchange Session」に、日本代表として川口さんが参加する予定だ。台湾をはじめ、タイ、マレーシア、インドネシア、ボルネオなど各地の籐細工職人が集い、新たな交流が始まろうとしている。
点と点が結びつき、線になる。線が交差し、やがて面となる。今回の日台籐細工職人交流も、その線になれたのなら、これほど嬉しいことはない。
さて、筆者もそろそろ籐を編みたくなってきたところだ。
まずは山へ入り、籐を知るところから始めるとしよう。
2026年6月
Information
松江藩籐細工 / mintchuchu leather
Instagram:@mintchuchuleather
出雲かんべの里:https://kanbenosato.com/craft/36/
藤木植人(O.K.A.F Crafts)
Web:https://akacorat.wixsite.com/okaf
Instagram:@okaf_crafts
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