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叩き続けて半世紀、樹皮布工藝を復活させた元頭目を取材│臺東・都蘭 

2025.3.16

夕方、台湾南東部に位置する臺東の市街で友人と別れを告げ、興東客運バス8103号に乗り込んだ。向かう先は都蘭(ドゥーラン)という約2,000人が住む海岸部落。台東市街から北へ40分ほどの距離だ。昼間ならコバルトブルーに輝く東海岸の美しい道のりなのに、今は窓越しに映るもの寂しげな自分の顔と向き合っている。

都蘭を訪れることになったのは、偶然の巡り合わせだった。以前、神戸で台湾からの視察団をアテンドした際、都蘭の地方創生団体「都蘭國(’Etolan Style)」の発起人と出会った。話が弾み、今度は私が彼らの地域での取り組みを視察することになった。

近年、都蘭はアートや音楽シーンで注目されているエリアだ。音楽業界の重鎮となりつつある台湾阿美族(以下、アミ族)のシンガーソングライターSumin(舒米恩)がオーガナイズする阿米斯音樂節は、都蘭中学校で2年に1度開催されている。アート分野でいえば、日本統治時代に建てられた製糖工場の跡地をアーティスト・イン・レジデンスの拠点地としている。

そんな都蘭で今回、アミ族の「樹皮布工芸」復活の立役者を取材させてもらった。彼のバックグランド、先代の指導なしで一から始めた復興プロジェクト、そのあとの展開など興味深い話を聞くことができた。

境界の曖昧さが地元カルチャーを深耕してきた

朝、半開きの窓から小波の音と潮の匂いが部屋を包み込み目を醒ます。待ち合わせの時間まで街を散策しようと散歩に出かける。昨晩は暗くて気づかなかったが、あたりを見渡すと、ここは海と山に囲まれた土地だとわかった。その景色が、ふと、私の住む神戸と重なり親近感を覚える。

山と海に囲まれた都蘭部落。山頂からは人気の観光地「綠島」を眺望できる

海辺には何軒かのサーフハウスがあり、欧米人らしき観光客がスウェットスーツ姿でサーフボードを抱えている。そういえば、都蘭は台湾東海岸でも有数のサーフスポットだったことを思い出した。

最初に目に入ったお店で朝食を摂っていると「観光かい?」と地元の人が声をかけてきた。自己紹介をすると、そこから話が弾む。毎回、台湾に来るたびに感じるが、現地の人たちが醸すアットホームな雰囲気に心が和む。

地元の人の話によると、「都蘭」という地名は阿美語の「Atolan’」に由来する。意味は「多くの石がある場所」または「石を積み重ねる場所」。

数年前に著名人が持っていたことから、一時ブームになった都蘭國小(小学校)ショルダーバック

かつてこの地にやってきた人々は、土の中から無数の石を掘り出し、それらを積み上げて家や田畑の境界をつくった。しかし、それは人と自然を隔てるためのものではなく、共生関係を示す印だった。「Atolan’」という言葉には、石を拾い、積み重ねることで、人と人、人と自然の境界を絶えず定義し続けるという意味が込められているのだという。都蘭のカルチャーの根底には、このような境界の曖昧さから生まれる開放性と、生命力があるんだ、と。

この地名に秘められた深い意味に、感動する。

都蘭では外部の人を受け入れる土壌がすでにあり、異なるもの同士が交わり、共に生きることで、より力強い文化的生命力が生まれてきた。だからアーティスト・イン・レジデンスにも好意的なのだと思ったし、街全体がクリエイティビティに溢れているようにも思えた。

カルチャーを掘り起こし地域を再編集する都蘭國('Etolan Style)

朝から良い話が聞けたところで、時間になったので待ち合わせの場所へ向かうことにした。この日、アテンドしてくれたのは都蘭國('Etolan Style)のファウンダーの鄭宜豪氏。

都蘭へ移住する前、台北の映像会社で働いていた宜豪(私は彼をイーハオと呼んでいる)。仕事のご縁からアミ族出身のミュージシャンSumin(舒米恩)のマネージャーとなり、阿米斯音樂節の統括・企画運営を担当していた。どこからも引っ張りだこの彼にわざわざアテンドしてもらうのだから、贅沢な気分だ。

活動拠点である都蘭國入境大廳
持続可能な観光や地元の若者のキャリア相談窓口としての役割も担う(都蘭國 'Etolan Style提供)

地元の農家野菜も販売、道の駅的な場所にもなっている

都蘭國は、伝統文化の復興と地域活性化に取り組む地方創生団体だ。アンテナショップや観光案内、作品展示、現地ツアーなどを通じて、都蘭の文化を発信している。

都蘭は、人口流出や伝統文化の衰退という問題を抱えていた。そこで、部落の若者と長老たちが協力し、地域の歴史、文化、工芸を再編集するプロジェクトを立ち上げた。その中心となったのが「都蘭國」だった。収益の一部は、公共事業や災害支援、祭典の開催、文化振興に充てられ、地域内で循環する仕組みが作られている。

そして、都蘭國には多くの職人が所属している。今回、私はその中でも特に注目される人物に会うことになった。

一度は途絶えたアミ族の「樹皮布工芸」を復活させた職人。

さっそく、彼の工房へ向かった。

頭目から工芸の道へ

工房へ向かうとそこは静かな空気に包まれ、時間がゆっくりと流れているようだった。

「いないのかな?」

宜豪が職人を探しに行っている間、工房兼ギャラリーの中をのぞいた。

計算されたライティングが展示物を美し映えさせる

ファッション性の高い作品

最近リニューアルしたという展示空間は、規律正しくものが並べられ、洗練されたディスプレイに仕上がっていた。タペストリーに書かれた解説を読んでいると、背後からどこか懐かしい日本語が聞こえた。

「いらっしゃい、よく来たね。」

ゆったりとした歩幅で近づいてきたのは、台湾アミ族の樹皮衣工芸を復活させた立役者であり現役の職人、沈太木(アミ名はPanay、以下先生と呼ぶ)だ。

沈太木(Panay)先生、身につけている帽子とアウターは自作(都蘭國 'Etolan Style提供)

先生は、日本統治時代に都蘭で生まれた(御年91歳)。かつて、この部落の頭目(部落の長で権威の象徴) を務めていた人物でもある。

日本統治時代の写真
昭和15年(1940年)12月6日に撮影された写真には、「訓練大会優勝記念」と書かれている

率直に頭目から工芸へ進んだ経緯を聞いてみた。

「頭目に選ばれて、部落を引っ張らなければならない使命感を持ち始めた。“名ばかりの頭目”ではいたくないと思ったんだよ。若い人たちに何を残せるか、お手本になるために自分がどうあるべきか、ずっと考えていた。」

そう話す背景には都蘭が抱える地域の課題に向き合っていたことを想起させる。

「私たちアミ族の文化を後世に残したいという強い気持ちが出てきてね。そんなときお父さんが言っていたことを思い出したんだ。昔の人たちは樹皮布でつくられた服を着ていたんだよってね。当時まだ小さかった私にはどういうことかさっぱりだったけど。でも、途絶えてしまった伝統工芸を復活させることに意義があると感じた。」

"立場が人をつくる"と言われるように、頭目の立場が先生を突き動かした。

情報もない、知識もない、ゼロの状態から始まった

元来、台湾原住民族は文字を持たない文化で生き残ってきた。大事なことはすべて口承のみで子々孫々伝わってきたが、樹皮布のように失われてきたものもある。「良い行いをしてこそ、悔いなく生きられる」という父親の教えが彼の原動力になっていたのかもしれない。

「いざ行動を起こそうとしても当時はね、樹皮布工芸について知っている人は周りにほとんどいなかった(インターネットは普及していなかった)。だから故郷でいちから始めて、この工芸を復活させるきっかけになればいいと考えた。」

第1回原住民族工芸薪傳賞を受賞した先生

そうは言っても父の言葉と昔見た樹皮布工芸のかすかな記憶のみに頼り、独学でここまでやってこれたのは並大抵のことではない。衣服に適した樹種を見極め、身体にフィットする繊維の最適な厚さに加工できるようになるまで長い年月をかけて試行錯誤し、今に至る。

「最初の数十年は間違った方向へ進んでいたことに気づかなくて、本当に大変だった。昔は友だちとよくお酒を飲んでいたけど、樹皮布づくりを始めてからは、一日中木を叩いていて酒を飲む時間がなくなった。だから、友達もいなくなったよ。」

と冗談交じりに語るが、その道のりがいかに険しかったかは、言葉の端々から伝わってくる。

先生の妻である潘秀仔(Asaw)さん(写真中央)
夫に寄り添い支えてきた、今もいっしょに樹皮布工芸に励んでいる

さまざまな用途で使われてきた樹皮布は、人々の営みから必要とされ生まれるべくして生まれた先代の知恵でもある。まずは世間にこういう文化があったことを認知させ、学ぶ意思のある者をいつでも迎えられるよう、門戸はいつも開けているという。

樹皮衣の制作工程

小学館出版の『大辞泉』によれば、「樹皮布とは、樹皮を水に浸して柔らかくし、木槌きづちで打ち伸ばして作った布。」と定義されている。台湾原住民を含むオーストロネシア語族が住む地域では樹皮布を使った衣服文化が見られることが、台湾の研究機関によって明らかになっている。日本のアイヌ、北米の先住民、ウガンダ、ロシア、北欧でも似たような文化があるそうだ。

樹皮衣が台湾の歴史の文献に初めて登場したのは、中国・清時代の地理書紀行文『裨海紀遊(1698年)』である。当時の台湾原住民の間で樹皮衣を用いた服飾文化が見られたという。樹皮衣は、狩猟の際に体を傷から守るだけでなく、首長や祭司の身分を示す象徴でもあったとされる。

個人的には一番好きな風合い

では、いったいどのようにして樹皮布が作られていくのか、その様子を工程ごとに動画でまとめているので、ぜひご覧いただきたい。

使われている樹種はクワ科の楮 (コウゾ)。白く柔らかく、弾力性に富んでいるため、優れた繊維素材として重宝されている。動画をご覧いただくと、先生が繰り返し木を叩いている。叩くことで樹皮を完全に剥がし、繊維に張力と水分が残っている間に加工できるというわけだ。驚くことに叩き続けると生地は最大で約2〜3倍伸びるそうだ。この工程が最も重要だと先生は強調している。

(都蘭國 'Etolan Style提供)

仕上げの縫製は妻の潘秀仔さんが担当し、樹皮帽子、樹皮アウター、樹皮バッグ、ウエディングドレスなどがつくられるといった具合だ。樹皮布で作られた衣服は、洗濯に強く、涼しく、防水性があり、さらには草木による傷から身を守ることもできる。

人事を尽くして天命を待つ

先生がここまでやってこれたモチベーションのひとつに「文化と技術の継承」への強い想い入れを感じる。近年、工芸関連の賞を受賞するなどしてメディアに取り上げられることも多くなり、工房ではDIY体験できるプログラムができた。その裏には地域資源を活用した観光コンテンツづくりを担う都蘭國('Etolan Style)の存在も大きいだろう。


ワークショップの様子(都蘭國 'Etolan Style提供)

ニュージーランドからの視察を受け入れるなど国際交流にも積極的(都蘭國 'Etolan Style提供)

「ようやく誇れる成果を残せたんじゃないかと思う。これからは、若者たちが真剣に樹皮布づくりに向き合う姿を見守るつもりだよ。」

ビールを片手に満面の笑みを見せる。嬉しいことに何名かの若い人が先生たちのもとに弟子入りし、その後、伝統を受け継ぎながら独自の作品づくりを続けているそうだ。

「文化を残す」ことの本質は

知へのアクセスが今ほど自由にできなかった時代に、夫婦二人三脚で樹皮布工芸の復興に尽力してきた先生たち。お二人の弛まぬ努力に敬意を表したい。

「文化は、ただ保存するだけでは意味がない。それを実際に使い、生活の中に取り入れてこそ、本当の文化の継承になる」

という先生の自論には説得力があった。

文化を残すことの意味を改めて考えさせられるとともに、台湾原住民族文化を発信する立場として、身が引き締まる取材となった。

お二人ともありがとうございました。いつまでも元気でいてください

2024年9月 取材

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